吉良家の方が上杉家より格上だった

八幡 和郎

上杉謙信像(上杉神社蔵、Wikipedia:編集部)

「系図を知ると日本史の謎が解ける」(青春新書)で扱った大名家のなかで、系図をたとっていくと面白いもののひとつに上杉家がある。

上杉家は藤原一族の公家である観修寺重房が、宗尊親王が鎌倉に下って将軍となったとき行動をともにした。丹波の国で上杉荘をもらったのが名の起こりである。

それが、室町時代に関東管領の地位を得たのは、足利尊氏の生母が上杉家出身だったからである。鎌倉時代にあって、足利氏は北条氏から正室を迎え、尊氏の祖母も正室も北条氏だが、尊氏の父の正室は男子を持たなかったので、側室の子である尊氏が跡を継いだ。

関東管領の上杉氏は、何系統にも分かれたが、最有力は群馬県を本拠とした山内上杉氏である。しかし、北条氏に押されて越後に移り、自らの分家である越後上杉氏の家老だった長尾家の謙信を養子にした。長尾家は桓武平氏だ。

上杉謙信にとって生涯最良の日は、1561年に鎌倉鶴ケ丘八幡宮で関東管領への就任を宣言したときであろう。だから、関ヶ原の戦いのとき、上杉家の本当の狙いは関東だったと思うし、だからこそ。家康は上杉を恐れた。
米沢藩三代目藩主綱勝の正室媛姫は三代将軍家光の庶弟である保科正之の息女であったから、もしこれが跡継ぎを産んだら上杉家の立場は盤石となるはずだった。

この奥方は異母妹が加賀の前田綱紀に輿入れすることに決まった祝いということで実家を訪れた。ところが、媛姫の生母が、自分の子供でない妹が我が上杉家より格上の加賀前田家に縁づいたのを妬んで、毒を盛ったのだ。怪しいと感じた妹のお付きの女性が機転を利かして御膳を入れ替え、なんと媛姫が死んでしまった。

のちに、綱勝は公家の四辻家から富姫を継室に迎えたのだが、跡継ぎが出来る前に綱勝が急死した。このころ、大名は病に倒れてから養子を決める「末期養子」も認められるようになっていたが、急な病気で七転八倒していたので、末期養子を決めることすらできなかった。

そこで、お家断絶が原則だったのだが、将軍の叔父だった保科正之が、自分の側室の不始末で媛姫が死んだことも跡継ぎがいなかった理由だったので責任を感じて、法を曲げて救済するように横車を押して、領地半減を条件に吉良上野介の二歳の子だった綱憲を四代目とした。

吉良家にとっても、一人息子だったし、そもそも、官位からいえば、吉良義央は従四位上(島津・伊達並み)で上杉綱勝は従四位下だから吉良の方が上なのである。

だから、吉良が上杉に自分の子を養子に押しつけて乗っ取ったというのはおかしい。自分の一人息子を格下の妻の実家救済のために差し出したという美談である。だから上野介は上杉に対して、強気だったし、幕閣の実力者だったから利用価値もあった。そこで、上杉家におねだりもしたし、上野介の「無理をしても家格を落とさないでやせ我慢する事が生き残る道」という助言を受け入れて、酷い財政難になった。

このように、江戸時代の大名の石高と官位はまったく一致しないので、大きい大名が偉いわけではない。また、大名の家臣同士でもそうだ。上杉家でも家臣筆頭は、格の上では甲斐の武田氏である。

初代景勝の正室菊姫が武田氏から迎えられていたので、その弟で客分となっていた武田信清は、上杉家の高家筆頭という客分格として待遇され家内最上席を与えられて存続した。