「おんな城主・直虎」は、視聴率はともかく、歴史ドラマとしては、なかなか面白い洞察を含んでいてなかなか楽しめている。11月12日放送分は、「魔王のいけにえ」と題して、信康事件を扱っていて、どんな刺激的な内容かと期待したのだが、案に相違して、信康をできのよい模範生的な息子ととらえ、築山殿もいろいろ諍いはあったにせよ、家康の妻としての自覚を持った女性にするといういまどきこんな見方をする人もいるのかというあほらしさ。
信康の近臣が武田と通じて家康の暗殺を謀ったので、監督不行き届きで信康と岡崎衆が謹慎を命じられるが、忠誠ぶりを発揮して処分は解除されそうになっていたということにした。
織田信長も、信康を評価していたが、家康と同等の官位を与えて家康を懐柔しようとしたが、信康がそれを断ったことから腹を立てて、妻の徳姫の不満を契機に武田と通じているとして処断することを家康に強制したということになっていた。家康は悩んだが、実母から家のためには子を殺すこともあるというのが武士のならいといわれて決断することになっていた。
しかし、信康が家康とあまり年齢差がないこともあって、父の家康に対抗するような動きをし、また、老臣たちに厳しくあたる一方、若い家臣からは家康より人気があり、対立が深刻だったことが確実だとわかっている。
おそらく、信康を処分したいと言い出したのは家康であって、舅である信長の了解を求めたのではないか。ただし、家康は殺すまでは考えなかったが、信長から廃嫡するなら殺さないと危ないと忠告されたことはあったかもしれない。
以下、昨年6月にアゴラに載せた「築山殿と信康に死を命じたのは家康か信長か」を再録するとともに、拙著『「系図」を知ると日本史の謎が解ける』(青春新書インテリジェンス)に所収した信康の子孫についての話の要旨を上げておく。
再掲「築山殿と信康に死を命じたのは家康か信長か」
徳川家康は嫡男信忠より家康の長男である信康の出来がいいのを心配した織田信長の命令により、武田と内通したという無実の罪で妻の築山殿を斬り信康に切腹を命じたと昔から言われてきた。
織田信長の娘で信康夫人だった徳姫が信康が粗暴で、築山殿は武田と通じていると言ってきたので、真偽を安土にやってきた徳川家の重臣で信康付きの酒井忠次に問いただしたところ、否定しなかったので信長は信康を切腹させるように指示し、家康にとっては青天の霹靂で無実だったのに承知せざるを得なかったというのだ。
しかし、いまでは、家康と信康のあいだには、相当に深刻な対立が有り、酒井忠次も危険を感じるほどだったことが明らかになっている。
そもそも、築山殿と信康は家康を裏切るだけの理由があった。築山殿は今川一族の関口親永の娘で、桶狭間の戦いの時には駿府にいた。ところが、家康は岡崎に留まり、やがて、今川を見捨て織田と組んだ。そこで、家康は人質をとって今川氏真を脅し、築山殿と信康と妹(のちの奥平信昌夫人)を取り戻したが、氏真は築山殿の父母である関口親永夫妻を死に追い込んだ。これでは、築山殿と信康が家康を快く思わないのは当然だ。
成人した信康は信長の娘徳姫と結婚し、岡崎城を譲られて築山殿も個々に留まり、家康は単身で浜松城に移った。信康は粗暴だが武将としては有能で、家康と16歳しか離れていないので自己主張が強かった。この時代の若い殿様としては、異常ではないが、領民や部下への残虐行為は事実だし、榊原康政が諫言したら殺すと脅した。
武田方との内通は、築山殿だろう。しかし、信康は積極的には関与はしていないにしても、まったく知らなかったとは考えにくい。家康を除いて武田に乗り換える選択はもともとあり得たのである。
異母弟の秀康の認知をしぶる家康を強引に説得して認知させたというように、若武者らしく明け透けな信康は、ケチで慎重すぎる家康より人気があった可能性もある。
信康を謹慎させたあと、わざわざ家臣たちに信康と連絡を取らないように命じているのはそのへんの事情を物語っている。御曹司の副社長が部下から好感を持たれて力をつけてきたので、まだ引退する歳でもない父親の社長が怒って息子を会社から追い出そうといったパターンだ。
信長の方から娘婿信康を排除する動機はない。酒井忠次を使いに出して信康排除の相談を持ちかけ了解を求めたのは家康の方だ。信長が「家康の思い通りにせよ」といっただけだと記録にあることもそれを裏付ける。
ただし、家康が廃嫡などに留めるつもりだったのを、弟などの裏切りにあった経験がある信長が、廃嫡するなら生かしておくのでなく殺せと言った可能性はないわけでない。
いずれにせよ、家康は信長や秀吉が死んだあとも、築山殿や信康の名誉回復をしてない。残された娘たち(本多忠政と小笠原秀政の夫人)や妹(奥平信昌夫人)はいずれもそれほど厚遇されていない。
晩年の家康が信康を甘やかして育てたことを悔いたり、忠次らの補佐が十分でなかったことをなじるようなことをいったことはあるが、処分そのものを後悔していた節はない。
小笠原家は徳川信康の子孫
築山殿と徳川信康の死は、織田信長に命じられて泣く泣く徳川家康が妻と我が子を殺したというわけでもなさそうだというのは、すでに紹介したとおりだ。
そんなわけで、築山殿や信康の名誉回復は行われていないのだが、彼らの子孫はなかなか栄えているのである。
信康には一歳下の亀姫という妹がいた。この妹は福沢諭吉の殿様である中津藩奥平家に嫁している。長篠の戦いは、織田信長の鉄砲隊で有名だが、この城に籠城していたのが奥平信昌である。
奥平氏は武田と松平のあいだで揺れていたが、武田信玄の死を察知し、徳川に寝返ることにした。このとき、信昌は妻と弟を人質にしていたが、これを見捨てたのである。
この決断に報いるために、家康は長女の亀姫を与えることにしたが、これに、兄の信康は猛反対した。可愛い妹の夫としてはいかにも信用できそうもなかったのは当然である。最後は、信康も同意したのだが、この争いが信康と家康の父子対立の引き金になった。
信昌は関ヶ原のあと加納一〇万石の城主となったが、嫡出の長女の婿にしてはもうひとつの扱いで愛情がどれほどのものかと疑問を持つ。亀姫は兄に似てかなり激しい女性だったらしく、家康としても煙たかったのだろうか。
信康と信長の娘である徳姫には二人の娘がいた。登久姫は小笠原秀政と結婚した。古河、飯田、松本と転じ順調に拡大したが、秀政と嫡子の忠なかは大坂の陣で戦死、次男の忠真が明石一で〇万石を得た。その後、細川家の肥後移封のあとを追って、豊前方面に領地を得た。その子孫は、小倉で一五万石、唐津6万石などの殿様として幕末を迎えた。 娘たちは蜂須賀至鎮と細川忠利の正室となり錚々たる子孫を残している。
信康の次女の国姫は、本多忠勝の嫡男である桑名城主・忠政と結婚した。この二人の嫡男が忠刻で、千姫が再婚した相手として有名だ。この結婚を受けて、本多氏は姫路城主となり、勝姫と幸千代を儲けたが、幸千代は三歳で夭折した。そこで、これは秀頼の祟りだと、木造の観音像の胎内に秀頼筆の「南無阿弥陀仏」の名号を納め御神体として崇めて慰め祀るから、千姫の守り神となって欲しいという千文字者もの祈願文を捧げた。
だが、秀頼の無念の気持ちが強かったためかはともかく、忠刻は三一歳にして死去し、千姫は娘の勝姫と共に江戸城に入り、出家して天樹院と呼ばれるようになった。勝姫はのちに鳥取から岡山に移っていた名君・池田光政の奥方となり多くの子に恵まれた。
千姫は家光からも長姉として敬意を払われ、家光の次男である綱重(家宣の父)を養子とし、一族の処遇にも積極的に関与した。さらに、秀頼の遺児である天秀尼の鎌倉東慶寺の造営を助けている。
本多家は忠刻の弟たちが跡を継ぎ、幕末には、三河岡崎、播磨山崎、陸奥泉の藩主だった。また、国姫の娘は有馬直純(日向延岡城主。子孫は越前丸岡藩主)と従兄弟の小笠原忠脩(戦死後は弟の忠真と再婚)に嫁いだ。