担当クラスの授業時間と学内の行事が重なり、二コマ分を別の時間帯に振り替えなければならなくなった。学生数は36人。授業に関する連絡はすべて携帯の微信(ウィー・チャット)のグループチャットを使っているので、早速、候補の時間帯を三つ挙げ、「不都合な時間を教えてほしい」と書き込んだ。授業中の場合もあるので、すぐに反応がこない学生もいるが、たいてい2時間もあればみなのところに知らせは届いている。
素早い学生は瞬時に返事がくる。
「三つともOK」
「水曜の午後ならOK」
「私も同じ意見」
・・・・・
・・・・・
・・・・・
みなの返事は例外なく「都合のいい時間」を伝えてくる。「不都合な時間」を聞いたはずなのに・・・と考えているひまもなく、次々に書き込みが続く。多くの意見が一定の時間帯に集約されていくにつれ、やがてレスポンスが途絶える。自然に大勢が決まってしまったのだ。
「では水曜日の午後が多いので、その時間帯に決定します」
2時間ほどの余裕をみて、補習授業の時間を決めた。異論も出ない。36人の都合を集約するにしては、実に効率の良い意思決定だった。
だが、考えた。質問を正しく理解せず、自分勝手に解釈する問題点はとりあえず置いておく。例外なく「希望の時間」を伝えてきた以上、理解力以上の、理解の仕方にかかわる文化的な差異があると考えられる。
私が「不都合な時間」を聞いたのは、欠席者を可能な限り少なくしようとの配慮からだった。それが公平で公正だと判断した。おそらく日本人の社会ではこうした意見の集約をするのではないか。宴会の日時を決める際、少数であれば希望日をすり合わせるが、人数が多くなると、欠席者の数でバランスをとるように思う。気の利いた幹事であれば、すぐに日程表を作って、「●」「×」を書き込んでもらうスタイルも一般化している。その場合でも、「×」の数によって日程を決めるのではないか。
もしかすると、私はいかにも日本的な発想をしたのではないか、と感じた。
どうも中国の学生には、「都合のよい時間」を聞くべきだったようだ。何としてもその時間にしてほしいと思う学生は、我先にと特定の時間帯をアピールしてくる。それに同調するものはすかさず追随の意思を表明する。特段の意見がない者は、大勢に従う。もともと授業に気が進まない学生、都合が悪ければ幸いだと思っている学生もいるに違いない。そうした者は進んで意思表示をしないだろうから、あえて意見を聞いてもしょうがない。みなもこんな共通認識を持っているような気がする。
だから、私が希望者の多い時間帯を補習時間に決めた際、何の異論もなく、話し合いはスムーズに流れていく。続けて教室変更の案内をすると、「OK」の返事や「了解」を示す絵文字が相次ぎ返ってくる。
日本ではこういう場合、どのようにしているのだろうか。大教室の授業ではそもそも一人一人の学生から希望を聞いている余裕はないだろう。ネットも携帯もない自分の学生時代を振り返れば、学部の掲示板に、休講の通知と振替の案内が一緒に張られていたような記憶がある。
一方的に決定し通知するか、あるいは徹底して全員の意見を聞き、最大公約数を取るか。日本はこの両極端のどちらかではないか。中国方式はどうもその中間を選んでいるような気がする。ルールにがんじがらめになっている日本の社会と、ルールよりも状況に応じ融通無碍、時にはいい加減に対処する中国社会の違いもあるのではないか。いずれにしてもそれぞれの社会風土、文化にかなったやり方なのだろう。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年11月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。