ブレードランナー2049に見る未来のリアリティ --- 昆 正和

©ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

遅ればせながら、先日は『ブレードランナー2049』を観に行ってきた。

僕的には、とてもリアリティのある、そして未来社会の荒廃感と虚無感を感じさせる映画だった。ストーリーを書いてもしょうがないので、ここでは映画から感じ取った印象や思いを断片的に書いておこうと思う。

まず「時間」だ。この映画の中には「時間の流れ」がない。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の前作、『メッセージ』もそうだったが、一つ一つの似たような場面が繰り返し現れる。観る側は、そのフラットで反復的なシーンの中に「変化」をくみ取るよう求められるのだ。いわば止まった時間の中で変化を見つけ出すのが、観る側の楽しみということになるのだろう。受け身的に面白い展開を期待している人にとっては少々物足りないかもしれないが。

次に「人」。未来社会は決して明るくはないことを予感させる。SF映画の内容を鵜呑みにして言っているわけではない。今日の私たちの社会の風景の中に、すでにその種火がくすぶっているのが見えるからだ。主人公を始め、この映画に登場する人物の多くは相手に対して疑心暗鬼になっている。疑わしそうな眼付き、敵対的な目付きの人ばかり出てくる。

その理由の一つは環境だ。過去に起こった核爆発や異常気象による世界全体の荒廃が背景としてあるだろう。街や自然が荒廃しているのだから人間の気持ちも荒まないはずがない。核と異常気象。この二つは現在の私たちの社会にとっても深刻な脅威であることは疑いのないことだ。

もう一つの理由は、労働力を提供するために作られたレプリカント(アンドロイド)が人間社会と共存しているという状況だ。この状況、何となく既視感があるではないか。大金持ちはますます大金持ちになり、世界的に格差が広がっている。労働者が資本家に搾取され、持つ者と持たざる者の差がより鮮明になっている今日、そこには人間らしい細やかな気遣いや共感意識、配慮といったものはなく、殺伐とした雰囲気がいたるところで見られる。

唯一、最も人間らしく、いやそれ以上にとても細やかな愛情を持って主人公に寄り添っている従順な人物がいる。ジョイという名のAIホログラムの女性だ。これもまた今日の私たちの社会の延長にある姿かもしれない。今やコンピュータが作り出す仮想現実の世界は、いくらでも人間の欲求に合わせて最適化できる段階に来ているように思う。

2次元や3次元空間上に作り出される理想的でリアルな男性や女性のキャラクター商品。自分にとってはかけがえのない、世界に一人しかいない最愛の人と思い込んでいる相手が、アマゾンの売上ランキング1位のベストセラー商品であったりする。近い将来、そんな日が来ないとも限らない。

『ブレードランナー2049』は、虚無と荒廃のリアリティに満ちている。しかしそれは、1982年公開の「ブレードランナー」のリアリティ(荒廃したロサンゼルスの光景)とは別次元のものだと思う。

昔の「ブレードランナー」では、地球に取り残されたいろいろな国の民族が入り乱れ、世紀末のような混沌とした雰囲気の中でエネルギッシュに生きている人々が描かれていた(例えばうどん屋のおやじなど)。通りを歩く一人ひとりに「実在感」みたいなものを感じ取ることができた。ところが「2049」では、街行く人々の実在感が影絵のように希薄になり、ほとんど誰もいないような印象しか残らなかったのだ。これもまた未来社会を暗示させるものなのか。

少し身震いしながら、僕は映画館を後にしたのである。

昆 正和(こんまさかず) BCP/BCM策定支援アドバイザー
東京都立大学(現首都大学東京)経済学部卒。9・11テロでBCPという危機管理手法が機能した事例に興味を持ち、以来BCPや事業継続マネジメントに関する調査・研究、策定指導・講演を行っている。