今年は、三島由紀夫の『美しい星』という小説が映画化され、山崎豊子の『女の勲章』がテレビドラマ化された。それと今年度の下半期、NHKの朝の連続テレビ小説で『わろてんか』という番組が始まり、物語のモデルとなっているのが吉本興業の創業者という共通点があるので山崎豊子の『花のれん』を原作と考えている人もいるようだ。もっとも、話の内容はかなり違っていて、NHK側は「このドラマの原作は存在しない」と否定している。別に「これこれの場合に原作と呼ぶ」という明確な定義があるわけでもなく、原作と呼んでいいのかどうか微妙なところなのだろう。
三島由紀夫と山崎豊子は、二人とも大正10年代生まれで、死後も本屋に本がたくさんおいてあり、作品が映像化されることが多く、そして、推理小説や時代小説を書いていないかまたは非常に少ないという共通点がある。だが、三島由紀夫は映画化されることが多く、山崎豊子はどちらかと言えばテレビドラマ化されることが多いという点が違う。今年もその傾向どおりだった
たいした疑問でもないけど、時々どうしてかなのかなと、考えることがある。飲み屋での酒飲み話くらいにしかならないかもしれないが、これはこれで考察してみるとテレビと映画というメディアの性質の違いがわかるかもしれないし、少なくとも頭の体操にはなる。
もっとも、山崎豊子は映画化された作品もそれなりにあるし、映画とテレビドラマでは、そもそもテレビの方が製作本数が圧倒的に多い。だから山崎豊子のことよりは「三島由紀夫の作品がテレビドラマ化されるよりも映画化されることが多いのは何か理由があるのだろうか」ということを中心に考えた方がいいのかもしれない。
まず、映画化されることがテレビドラマ化されることよりも多い作家にどんな人がいるか思い出してみる。
製作本数の圧倒的な違いから考えれば、映画化されるよりはテレビドラマ化される場合の方が多いのが普通だから、映画化された回数の方が多い作家というのは何か理由があるはずだ。私が具体的にすぐに名前が浮かぶのは、三島由紀夫以外では、谷崎潤一郎・有馬頼義・源氏鶏太・大藪晴彦である。あまり共通点のなさそうな面々だけど、テレビドラマ化された回数より映画化された回数が多いという点では共通している。
有馬頼義と源氏鶏太は、映画全盛時代に売れていたが、民放が出そろってテレビドラマが量産されるようになったころにはもうあまり売れていなかったというのが理由だろう。売れていた時期の問題だ。大藪晴彦は、ピストルをぶっ放して敵を次々に殺すような暴力的な描写が多いのでどう考えてもお茶の間には向いていない。映画向きである。この例からは、映画とテレビでは、求められる作品傾向が異なることがわかる。谷崎潤一郎は、死後も本屋に本が置いてあるが、三島由紀夫や山崎豊子ほどたくさんの本が置いてあるわけではなくどちらかと言えば古典扱いだし、内容も性や官能を耽美的に描く作風でやはりお茶の間向きとは言いがたい。
そうしてみると、三島由紀夫作品は谷崎潤一郎や大藪晴彦ほど作風がテレビに向かないとか、有馬頼義や源氏鶏太のようにテレビドラマが量産される時代になって極端に売れなくなったということもなく死後も本屋にたくさん本がならんでいる。どうしてテレビドラマよりも映画になりやすいのだろうか。
やはり、小説の長さや作品数という要因がかなり大きいと思う。三島由紀夫の作品で大長編というのは非常に少なく、文庫本で一つの作品が2冊以上にわけて売られているのは『豊饒の海』だけである。また、同じ主人公が登場するシリーズものというのもないし、似たような傾向の推理小説等を大量生産するようなタイプでもない。テレビの場合、連続ドラマとかシリーズもの等が主流なので、ある程度の長さがあるかシリーズものの作品等でないとドラマの原作になりにくい。三島の場合、わかりやすい起承転結があってストーリーの構成が整っている中編くらいの作品が多く、長さも構成も映画化に向いている作品が多い。
それと、三島由紀夫の作品は娯楽小説でもフランス文学の翻訳のような文体で書いてあったりして、一言で言えばインテリ好みである。映画監督など映画製作関係者の方がテレビ制作関係者よりも東大を出た人が多いようなので、それも関係があるのではないだろうか。
三島由紀夫の作品で一番映画化された回数が多いのは『潮騒』。文庫本200ページくらいの作品で、中編小説という概念があるとするならば、まさに典型的な中編小説である。5回映画化されていて、どちらかと言うと女優中心の作品が多い。主演女優は古い順に青山京子・吉永小百合・小野里みどり・山口百恵・堀ちえみ。製作会社は、吉永小百合主演のもの以外はすべて東宝と、東宝の文芸路線向きにできている作品である。映画化5回というのは、日本映画史上、『兵隊やくざ』『座頭市』みたいなシリーズものを除けば、『宮本武蔵』『伊豆の踊子』に次ぐ回数だ。
逆に山崎豊子は、短編集を1作と考えれば、2分冊以上になっている作品と1冊で終わる作品の数が同じくらいで、大長編の割合が高い。人気作家の中ではかなり寡作な方で、一つの作品を5年くらいかけて書くこともあったし、シリーズものの作品もない。2回以上映画化された作品はなく、映画化された作品は必ずテレビドラマ化もされているが、その逆はいくつかある。ドラマ化されても映画化されていない作品は『花紋』『二つの祖国』『大地の子』『運命の人』などである。
山崎作品で一番テレビドラマ化された回数が多いのは『女系家族』で、実に7回。おそらく日本のテレビドラマの原作の中で一番ドラマ化された回数が多い小説だろう。長さが400~500ページの文庫本2冊分で、主要登場人物は遺産相続争いを演じる3姉妹及び愛人と曲者の大番頭など。主要登場人物のすべてが金にがめつくて自分のことばかり考えている関西人である。小説の長さだけでなく主要登場人物の人数とかキャラクターなども実にうまくテレビの連続ドラマにはまるようにできている。
最後に映画化された作品よりもテレビドラマ化された作品の方が圧倒的に多い作家を思い出してみると、一番典型的な作家は夏樹静子だと思う。
夏樹静子原作の映画は『Wの悲劇』1作のみだが、テレビドラマ化作品は本当に数知れず。例えば、検事・霞夕子が主人公の作品群は、日本テレビの火曜サスペンス劇場及び火曜ドラマゴールドとフジテレビの金曜プレステージの原作になり、弁護士・朝吹里矢子が主人公の作品群はTBSの月曜ミステリー劇場、フジテレビの金曜プレステージ、テレビ朝日の土曜ワイド劇場の原作になっている。これほどテレビドラマ化と映画化作品の数に差がある人も珍しい。
これは、「とびぬけた大ヒット作とか話題作などがなく、水準以上の推理小説の桂作を大量生産するタイプである」ということが一番の原因だと思う。テレビだと大量の作品の中からキャストや放送時間帯などに合わせた作品を選ぶことができて非常に使い勝手がいいが、映画化するにはもっとインパクトのある作品の方がいいのだろう。
こうしてあれこれ過去の映像化作品を振り返ってみると、例えば三島由紀夫の『潮騒』などの中編小説には健全な内容のものがけっこうあり、それらはお茶の間で見られては困るようなものでもない。テレビ向きかどうかということにおいては、もちろん作品傾向も大切だが、小説の長さとか、シリーズものとか似たような傾向の作品が大量にあるかどうかということなどもかなり重要なのではないだろうか。
一方、映画向きかどうかというのはなかなか難しい問題で、いろいろな例を参考に考えてみてもよくわからない。『もしドラ』みたいな大ベストセラーが映画化されやすいとか、『坊ちゃん』みたいな名前のよく知られた古典的名作が映画化されやすいということはあるが、それらにも例外は多い。映画はテレビドラマに比べれば製作本数が少ないので、映画製作者などの目にとまるかどうかという、めぐりあわせのようなことが大切なのかもしれない。
—
中井 正則 フリーライター
予備校講師・高校教諭・書店経営者等を経て、現在はフリーライター。