慶長の役を客観評価すれば無謀とはいえない

朝鮮戦役海戦図屏風(Wikipedia:編集部)

加藤清正の銅像をめぐる蔚山市の騒動はすでに紹介したが、文禄・慶長の役について、戦後の日本では、無謀な外征であるということばかりが紹介されるが、これも、史実とは乖離した政治的史観である。

ここで紹介するのは、文禄の役でなく、慶長の役とその後の結末について、『韓国と日本がわかる 最強の韓国史』(扶桑社新書)で書いたことの要約だ。

文禄の役で逃げる朝鮮軍を追って平壌を占領したり、一部は満州にまで達したものの補給が続かず明軍の逆襲で休戦することになった反省で、慶長の役では南部の要衝をしっかり固めることに徹したのである。

緒戦で半島南部全体を攻略しソウルを落とすことも可能だったが、いったん、蔚山、泗川(慶尚南道)、順天(全羅南道南東部)のラインに後退して、1599年に大攻勢をかける予定だった。

明軍が攻めてきたがいずれも撃退して、戦局は有利に展開したが、秀吉の死によって五大老・五奉行はいったん撤退することを決めた。撤退を知ると、また、攻勢をかけられ、とくに、水軍には苦しめられたが、最終的には李舜臣も討ち死にして制海権は確保され無事に撤退に成功している。

その後、徳川家康は第三次遠征をちらつかせながら交渉し(関ヶ原の戦いの引き金となった上杉景勝への上洛要請は朝鮮への派兵を討議するためだった)、関ヶ原の戦い後の不安定な政局もあり、朝鮮側が通信使を派遣することで決着した。

これは日本側からすれば朝貢使節であるが、朝鮮側からすればそうでないと強弁できる余地を残したもので、しばしば、幕府が通信使に朝貢使節らしい振る舞いをさせようとして攻防戦があった。どの程度の上下関係だったかは見方が分かれようが、対等の国交ではなかった。

慶長の役に参加した将兵が大変苦しい思いをして、厭戦気分が高まり秀吉の死によってやっとの思いで帰国したのは事実だが、それは、明軍にとっても同様だった。結果的には、明は財政的にも大打撃を受けただけでなく、遼東方面から大軍を出したことからその方面が手薄になってヌルハチによって統一された満州族の勃興を許した。

ヌルハチは、大坂夏の陣の翌年である1616年に後金を正式に建国し反旗を翻したので、明は兵を出すよう朝鮮に要求したが、朝鮮はあまり協力せず、後金との修好まで試みた。恩知らずの極みである。ヌルハチは1626年に死んだが、跡を継いだホンタイジのもとに、朝鮮王室内の政争で敗れた勢力が亡命して朝鮮攻撃を要請したので、3万の兵で朝鮮攻撃をしたのが、丁卯胡乱(1627年)だ。

このときは、「後金と朝鮮は兄弟の盟約を結ぶ」、「両国軍隊は鴨緑江を越えない」、「朝鮮は明と友好関係を維持することは認める」ことを約束したが、ホンタイジは、1636年にモンゴルから中国皇帝の玉爾を手に入れて、満漢蒙の三民族に君臨する皇帝であると名乗り、清国の樹立を宣言し、朝鮮に君臣の関係とすることを通告した。ところが朝鮮が拒否したので、親征の結果、ソウル郊外の三田渡で朝鮮王は屈辱的な三跪九叩頭の服属儀礼を強いられ、日清戦争が終わるまで清の従属国家となった。

そして、ホンタイジの子である順治帝の1644年に、李自成の反乱軍によって北京は陥落して明は滅亡し、そのあとに順治帝は北京に入場した名実ともに満漢蒙の三民族の皇帝となった。

戦いを継続したらどうなっていたか

もし、秀吉の死による撤兵をしないとか、家康が再出兵していたらどうなったかと言えば、明とかなり有利な条件で和平を結ぶことは可能だっただろう。その内容は、領土ないし拠点の確保、明との貿易、朝鮮に対する優越的関係の確認というような内容になったのだろうが、具体的には琉球との関係が参考になるだろう。

徳川家康は、朝鮮に対する融和的な外交の埋め合わせに、島津氏に琉球征伐を認めている。その結果、琉球王国を事実上の管理下に置く、奄美諸島を島津氏に割譲する、琉球と明との冊封関係と貿易は維持される結果として島津氏と明は間接貿易をしているのと同じになった。

現代的な価値観からすれば、どこかの国を服属させるとか領土を割譲させるとかいうことは容認されるわけでないが、当時の世界では各国が競って覇権争いをしていたのだし、最終的には満州族の清に対して朝鮮は服属したのだから、日本が命脈が尽きようとしていた大明帝国による秩序の終焉と、南蛮人の進出という国際関係の激動のなかで、自国に有利な秩序を求めて行動したとしても、それが常識外の暴挙だったと断言できるものではない。

いずれにしても、ここでいっておかねばならないと思うのは、日本が積極的な対外進出とか強気の外交政策を展開すると必ず失敗するということを、史実をねじ曲げて認識させることを通じてやめさせようというのはフェアでないということだ。

韓国と日本がわかる最強の韓国史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2017-12-24