江戸300藩というが、正確な数を数えるのはたいへん難しい作業だ。なにしろ、藩というものは、江戸時代には正式の制度でも名称でもなかったのであって、明治2年(1869年)に創設された制度である。
幕末には、明治2年に藩として制度化された内容がだいたい固まっていたのであとで書くような270くらいという数字があるし、それは、だいたい、元禄期あたりからは安定したものだった。しかし、その始まりとなると、豊臣秀吉の天下統一と太閤検地をきっかけに形成が進んだが、関ヶ原の戦いから大坂夏の陣までは、徳川と豊臣と二つの天下が併存していたので数えることが難しい。
また、藩の名前も、明治2年以前には存在しなかったから、あるのは、明治になってから勝手に過去に存在した藩の名前をつけただけだ。しかも、それをきちんと整理した資料もなかったので、関ヶ原の戦い前夜から明治4年(1871年)の廃藩置県までに存在した数百の藩を余り難しいことをいわずに網羅した本を作ってみたのが、『消えた江戸300藩の謎』(イースト新書Q)である。
それでは最終的にいくつの藩があったのかだが、少し微妙な存在がいろいろあるのだが、いちおう私なりに基準を立てて計算したところでは、大政奉還の段階では271藩だった。しかし、明治2年の版籍奉還の時点では14藩が新設されて、3藩(会津・船形・請西)が廃止になって282藩。そして、廃藩置県のときには、22藩が消滅する一方で、斗南藩が新設されて261藩ということになる。
殿様の数はといえば、それより3人多くて264人。どうしうてそうなるかは、恐ろしく詳細な資料を新書版のなかに詰め込んだから、まずは、立ち読みででもご覧いただきたい。
思わぬ藩が、実は、廃藩置県のときにはなかったのだ。