私たちは幼い頃から、なんとなくいろいろな場所で、ずっと同じ会社で安定した人生を送るのがいいことだと教えられてきました。たとえば、私が通った慶応大学の前学長で、いまも内閣府のシンクタンク(経済社会総合研究所)の名誉所長である清家篤先生は、約5年前のNHKの番組で次のように話しています。
働くということを考えたときに、原則というか基本的には同じ会社でずっと働いたほうがいいんですよ。生活の安定からいっても、企業にとっても、長く働いてもらったほうが忠誠心が獲得できるし、それから教育訓練をして、すぐに辞められたら、会社が丸損でしょ? だから、せっかくお金をかけて訓練した人は、長く勤めてもらうということがいいことなんですね。
でも、金融のビジネスマンから大学の先生になったナシーム・ニコラス・タレブ(『反脆弱性(上・下)』)のように、えらい人たちが市民のためにと推し進める安定した人生には、目に見えにくい副作用があると考える人もいます。
まず、「誰にだって生活の糧は必要だ」という気持ちで働きつづけている場合、慢性的なストレス障害が生じることが挙げられるでしょう。
…イヤな上司、住宅ローン…試験のプレッシャー、面倒な雑事、溜まったメール、記入しなければならない書類の山、日々の通勤など、程度は軽くても継続的なストレスのほうが、間違いなく健康に悪い。そういう生活からいつまでも抜け出せないような感覚に陥るからだ。
次に、会社のトップ、中間管理職、一般従業員のどの立場にあっても、忙しい平日と限られた週末とに分離された生活では、余暇の使い方がマンネリ化、コモディティ化してしまう恐れがあります。
…うわべだけ立派なCEOは、型どおりでつまらない作り物の生活を送っている。スケジュールはあらかじめ決まっていて、目覚まし時計は欠かせない。余暇さえ時計との戦いで、4時から5時まできっかり1時間、スカッシュで汗を流す。彼らの生活は予定と予定の間にサンドイッチされているのだ。
住宅ローンを抱えた銀行の中間管理職は 究極に脆い。実際、そういう連中は価値体系の完全な囚人となり、芯まで腐り切ってしまう。毎年バルバドスで休暇を取るという人生に依存しているからだ。それはワシントンの公務員も同じだ。
現代人は、休暇中でも囚われの生活を送らざるをえなくなっている。金曜の夜のオペラ。スケジュールされたパーティー。お約束の笑い。これも金の牢獄だ。
また、まわりの人も多くが安定した被雇用者として働いている場合、その価値観を美化・神聖化し、広く押しつけるようになることが考えられます。
この価値観は、グローバル化とインターネットのおかげで、ブリティッシュ・エアウェイズで簡単に行けるところならどこでも広まっている…銀行やタバコ会社で懸命に働き、新聞を熱心に読み、(全部でないにせよ)ほとんどの交通ルールを守り、企業構造にとらわれ、上司の意見に依存し(職務記録が人事部に残るからだ)、法令をきっちりと遵守し、株式投資に頼り、南国で休暇を楽しみ、住宅ローンを組んで郊外に家を購入し、おしゃれな犬を飼い、土曜の夜にワインをたしなむ。
さらに、似た価値観が広まると、みんなが同じものを求めるようになり、同じ商品ばかり使いすぎる可能性があります。
勝者総取り効果はいっそう酷くなっている。作家、会社、アイデア、ミュージシャン、アスリートは、大成功するかまったく芽が出ないかのどちらかだ。
…私たちはおんなじ商品ばかりを使いすぎてしまう。この集中こそが危険なのだ。たとえば、マグロを過剰に消費すると、ほかの動物を傷つけ、生態系を脅かし、種を絶命に追いやるはめになる。
同じように、大人たちは金持ちになると、みんな同じ活動をし、同じものを買いはじめる。カベルネ・ワインを飲み、ヴェネツィアやフィレンツェに憧れ、南仏に別荘を購入するのを夢見る。その結果、観光地は耐えがたい場所になりつつある。こんどの7月、ヴェネツィアに行ってみるといい。
以上の組織生活における慢性的なストレスや、余暇の使い方・価値観・消費する商品の固定化などの影響は、「ずっと同じ会社で安定した人生」から生じるというよりは、そのなかで身につけられがちな「型どおりの思考」「固定的な思考」によるものなのかもしれません。その思考体系とは、次のもので特徴づけられると考えられます。
- 説明不能なことは実行できない、自分の行動を説明せずにはいられない
- あらかじめ「響きのよい筋書き」が書ける物事しか実行しない
- 間違い犯すことを嫌い、失敗を恥とみなし、情報源として使うことができない
- 新しい情報・経験を活かすのではなく、保身に回る(以前からの自分の考えや価値観を守る方を選ぶ)
- いまの自分に理解できないものは、ナンセンスだと切り捨てる
- 論理的なものを好み、ニュアンスを排除する
- 理解できても言葉では表現しにくいものを排除しようとする
- 「自分に理解できないからといって、不合理とはかぎらない」とは考えない
- 先延ばしの妙があるかもしれないとは考えない
- 冗長さを非効率とみなし、投資に近いものとは考えない
- 「はっきりとした仕事」を必要とし、「”うろうろ”する」のは苦手だ
私たちは講釈に依存している。行動や冒険を知識化せずにはいられない。公営企業や公務員、そして大企業の従業員たちは、何らかの講釈に当てはまるような物事しか実行できない。
このようにして見ると、「ずっと同じ会社で安定した人生」の深刻な副作用とは、以上のような変動性や不透明さを嫌う考え方に慣れ切ってしまい、余暇の使い方も含めて、実験や試行錯誤を繰り返す遊び心を失ってしまうことなのかもしれません。
もしタレブの言うように、「人生にはストレスや不確実性の果たす役割がある」「ストレスは情報である」「少量の害が頑健さを手に入れる第一歩」だとしたら…
あらゆるものの成長は、「あいまいで、直感的・野性的・自由奔放で、理解しにくく、身体の内側から湧いてくるようなもの」がなければ進まないのだとしたら…
私たちに必要なのは、ランダム性、無秩序、冒険、不確実性、自己発見、トラウマに近い出来事だ。これらがあるからこそ、人生には生きる価値がある。
私たちはずっと同じ会社に勤めながらも、たとえば生活の10%は、他人の評価や基準ではなく自然な好奇心や本能的な刺激に従って、「自分がいちばん重要で面白いと思うものを、好きなだけ追求できる」機会にあてられるとよいのかもしれません。
それは「バーベル戦略」または「二峰性戦略(極端な安全策+極端なリスク・テイク)」と呼ばれ、タレブのアドバイスによると、「失敗は起きても小さいが潜在的な利得は大きい」機会を見つけることがポイントとされています。