韓国が中国の属国になった経緯を日本人は知らない

日本人、とくに保守系の人は「韓国は中国の属国だった」というようなことをよくいう。しかし、そのわりには、正確な意味と経緯を知らないので困るのである。あげくのはては、「日本も遣唐使とか派遣していたから同じではないか」と反論されても的確に再反論できなくて恥をかいたりする。

そこで、『韓国と日本がわかる 最強の韓国史』(扶桑社新書)ではそのあたりの意味を説き明かしているので、そのさわりを紹介したい。

日本が遣唐使を派遣していたとかいのは、中国がそれ以外の対外関係をもたなかったのがゆえの便宜的なものに過ぎない。たとえば、明治になって日本との外交関係を清は、イギリスなどとの関係と同じということにした。清はイギリスもかつてのローマ帝国もすべて朝貢者と位置づけていたのである。

逆に日本に唐の使節が来れば西蛮からの朝貢使と位置づけられたが、それは唐はいやだから原則として日本には使いを出さないようにしていた(たまに来るとトラブルになった)。

ただし、遣唐使にしても新羅や百済の使いにしても対等の外交とはいえず、上下関係は程度の差こそあれあった。また、新羅や百済は日本に従属しているとみなされた。しかし、その従属度はそれほど高いものでなかった。つまり百済や新羅は唐に朝貢はしていたが属国ではなかったのだ。

ところが、新羅が唐に対して完全な属国になる事件が起きた。朝鮮半島では、高句麗が百済と対立し、日本が百済を支援し、高句麗が随とあらそったときに日本と隋が接近したのが遣隋使の派遣である。

新羅が強くなったこともあって、日本と百済と高句麗が接近した。そこで、高句麗や百済を圧迫していた新羅が孤立することになった。そこで、新羅が独立を犠牲にして、年号や服装も唐の制度に従い、人名も民族的なものからから中国風のものにかえるといったことにして同盟関係を結び、日本・高句麗・百済の圧迫から逃れた外交革命が起きたのである。

このなかで、唐は新羅の援軍も得て、百済と高句麗を滅ぼして領土を奪い羈縻国(自治区のようなもの)とした。さらに、新羅も同様の扱いをして新羅王は王でなく自治区の長官にされてしまった。

しかし、新羅はこれには反発し、日本に対する従属関係もある程度は復活するなどして、唐と争った。

結局、渤海が満州で勃興して日本とも結び、唐にとって深刻な脅威となったので、唐は新羅が渤海との戦争で唐の助太刀をすることを条件に、百済の旧領のすべてと、高句麗の旧領のうち平壌の南を流れる大同江以南を領土として得たのである。

つまり、高句麗、百済、新羅という唐や日本に朝貢はするが独立国としての性格をもった国が割拠していたのが、新羅という唐に従属する半独立国による支配にかわったのが7世紀から8世紀に半島で起きた事件なのである。

そして、その後のコリアン国家は、李氏朝鮮のように、中国の皇帝からの任命行為(冊封)が終わるまでは国王ですらなく、中国の年号を使う半独立国となって日清戦争までそれが続いたのである。

清の時代でいえば、ベトナムと琉球が形式的には朝鮮と似た立場にあったが、ベトナムは周辺諸国に対しては格上の冊封関係をもち、琉球は日本の諸侯である島津の領土であるという変則的な両属関係にあったから、朝鮮王国に比べると清への従属性は弱く同一視はできないのである。

なお、この両属関係は、欧州中世における神聖ローマ帝国とその属邦の関係、また、その属邦とフランスなど周辺諸国の関係と似たもの(フランス王国の領土にして神聖ローマ帝国の属邦という地域もあった)、近代国際法が確立したウェストファリア条約以前の状況とはそんなに差がない。

そして、忘れてはならないことは、コリアン国家が中国の属邦であるという状況は、国際関係が混迷したときには、必ず日本にとっても脅威となってきたことだ。その最たるものは、白村江以降の唐の侵略が危惧された状況であり、脅威が現実化したのが、高麗と元とによる元・高麗寇の襲来であった。

釜山が中国に従属的な国の領地であることを甘く見てはいけない。

韓国と日本がわかる最強の韓国史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2017-12-24