『消えた江戸300藩の謎』(イースト新書Q)では、関ヶ原の戦いのあと、新しい城下町が建設されかつての城下町が消えた裏事情なども紹介している。そのうち、今回は新しく建設された福岡、仙台、萩と消えた名島、岩出山、山口を紹介しよう。
筑前一国を与えられた黒田長政は、豊前中津から小早川隆景・秀秋が本拠とした名島城に移ってきた。博多湾の北端の小さい丘の上である。小早川隆景は安芸や伊予での本拠地選定でも、あまり城下町の発展に力点を置かず、水軍の根拠地としての機能を重視したように見える。
しかし、黒田長政の父で築城の名人だった官兵衛は、城下町を重視していたので、博多とも有機的に連携できる城地選定を考えた。候補のうち、住吉はまったくの平地で防御が難しく、筥崎は河川が防御に使えるが水攻めに弱そうで、西公園のあたりは地盤が悪いということになり、福崎が選ばれた。これが福岡となった。
南に丘陵が続くのが欠点だが、西は低湿地、北は博多湾、東は那珂川で、南も丁寧に防御戦を引けば良いと考えた。天守台はあるが、建築はされなかったか、されても短命だった。南の丘陵地帯からの砲撃で標的になりかねないので不要だったと思われる。
小田原の役に参陣するのが遅れた伊達政宗は会津から米沢に戻されたが、のちに木村吉清に与えられた大崎(古川など北西部が地盤)・葛西(石巻など北東部)地方の土豪たちの反乱を扇動したということで、改易は免れたものの、米沢からこの葛西・大崎領に減封されて移された。
関ヶ原の戦いでは、上杉氏を背後から攻めることを家康から期待され百万石を約束されていたが、上杉に攻められた最上氏が窮地に追い込まない程度に上杉軍を牽制していただけだった。
百万石は反故となり、刈田郡(白石地方)を加増されたに留まった。しかし、領地の重心が少し南に移ったのと、葛西・大崎地方の土豪たちの掌握も一段落ついていたので、大崎地方にあって要害の地形で防御に重点を置いた岩出山城から、平野部にあって商業都市として発展しやすい仙台の地に築城した。
ただし、標高100メートルを超える絶壁の上に本丸があるという中世的な城地選定だったので、政宗自身は、海に近い若林城にいることが多かった。
防長2か国に押し込められた毛利氏は、とりあえず、山口に落ち着いた。そして、山口高峯、防府三田尻、萩の三箇所を居城の候補とした。萩を選んだのが、幕府と毛利氏の協議の結果で幕府が押しつけたというわけではない。立地点としては三田尻が良かったが。地質が崩れやすく工事費が高くかかるのが難点だった。
このころは、一国一城令は出ていなかったので、毛利秀元の長府、吉川広元の岩国、それに萩の三拠点で領内を固め、さらに山口に居館を設ければ良いという配慮だった。ところが、一国一城令が出ると、日本海側の萩はなんとも不便になり、幕末には藩庁を山口に移した。現在の県庁は山口城の跡にある。