三たび言う。自衛隊は軍隊である。

篠田 英朗

陸自公式Flickrより:編集部

一人の言論人として気ままにブログを書いているが、真面目に反応していただける方がいらっしゃるとすれば、大変にありがたい。先日、「再度言う。自衛隊は軍隊である。」という記事を書いたところ、弁護士の早川忠孝氏に「篠田氏が何を言っても、自衛隊は自衛隊でしかない」という題名の記事を書いていただいた。わざわざ言及していただき、大変に光栄である。

しかも「自衛隊はどこから見ても『軍隊』だ、などと断言されない方がいい」、「篠田氏は、もう少し違った切り口から問題提起をされては如何か」、という忠告もしていただいた。そのうちにまた、憲法学者・司法試験(公務員試験)受験者の方々に、「三流蓑田胸喜だ」「ホロコースト否定論者だ」と言われるぞ、というご忠告だろう。大変なご親切なお心遣いに謝意を表する。

だが、早川氏の文章の内容は、理解できない。

早川氏は、自衛隊は軍隊ではない、と断言する。そしてその理由として、次のように述べる。

「日本の国民が期待する自衛隊の役割は、あくまで日本の国民の安全確保や国土の保全のための活動であって、自衛隊はその名称に端的に表れているように、あくまで「自衛」のための組織であって、国際平和維持活動の場合を除いて、自衛の限度を超える活動までは基本的に求められていない。」

しかし、早川氏は、日本以外の世界の全ての国は、国際平和維持活動を除いた自国の防衛以外の目的で軍隊を保持している、というお考えの根拠を、全く示していない。そもそも国際平和活動や自国の防衛以外の目的だという謎の目的が、どんなものなのかも全く示していない。

もちろん、日本以外の全ての国が、謎の目的を掲げて軍隊を持っているという事実を、私は知らない。しかし、早川氏だけは知っているらしい。そうだとすれば、早川氏は、責任をもって、日本以外の全ての国々が、今、この現代国際法が適用されている21世紀においてなお、自国の防衛や国際平和維持活動以外の何らかの謎の目的で軍隊を保持している、ということを、しっかり立証するべきだ。

もし立証しないで他人の言論活動を一方的に封殺する行動だけをとろうとするのであれば、無責任のそしりを免れない。

たとえば海外に軍事基地を置くアメリカなどは、日本よりも集団的自衛権や集団安全保障に対応する体制をよりよく整えているだろう。しかしアメリカが自衛以外の目的で軍隊を保持するに至った、などと言う話を、私は聞いたことがない。集団的自衛権は、集団で行使する自衛権であり、つまり自衛である。日本の憲法学の基本書で説明されておらず極東の島国の司法試験勉強時に国際法を習わなかった、という理由で、国際法で確立されている自衛権の論理を否定したつもりになってみせるのは、やめてもらいたい。

たとえば世界中の人々が、アメリカのアフガニスタン戦争は国際法上の自衛権で正当化できるか、イラク戦争は正当化できるか、という考え方で議論をしている。前者は大多数が認めるが、後者は認めない。前者が認められるのは、9・11テロを本土攻撃とみなし、攻撃者勢力に対する自衛権の発動として認められうるからである。いずれにせよ、「アメリカなどの世界の国々は自由気ままに他国を攻撃できる軍隊を持っている、そのような軍隊を持っていないのは日本だけだ」、などという話は聞いたことがない。日本の憲法学者/司法試験受験者だけは、それが真面目な法律論だと信じているということなのだろうか。

また現代国際平和活動は、国連憲章7章、つまり集団安全保障の法理で支えられている。試しに憲法学の基本書のことは忘れ、日本国憲法それ自体を素直に読んでみれば、日本は憲章7章がかかっていない国際平和活動には参加しても良いが、憲章7章がかかっている国際平和活動には参加してはいけない、などというややこしい話が存在していないことは、すぐわかる。

早川氏は、軍隊の存在に関する規定が憲法にはないと言うが、日本は国連憲章を批准し、自衛権に関する憲章51条を含めた国際法規を受け入れている。憲法が明示的に否定していなければ、国際法規がそのまま適用されるのが当然である。

早川氏は、国際海洋法に関する規定が憲法にはないので、国際海洋法は違憲だ、と主張する準備があるだろうか。異常なロマン主義的な思い入れによる「全て憲法学者に仕切らせろ」マインドを排して冷静に考えれば、国際法の概念である自衛権も、本来は同じなのだ。多くの憲法学者はそれを認めない、というのは、むしろ政治運動の話であり、「法の文理解釈」の話であるとは言えないと思う。

早川氏は、中国や韓国が怒るだろうから自衛隊は軍隊ではないと言っておいたほうが得策だ、といったことを滔々と述べる。しかし、果たして、このような一方的な思い込みにもとづいた政治漫談が、早川氏が誇る「法の文理解釈」のことなのだろうか。

1960年代に国際法学者は、連日ベトナムに向けて爆撃機が飛び立っている米軍基地がある沖縄を、「事前協議制度」を持つ日本が返還してもらったら、集団的自衛権の行使に該当してベトナム戦争に参画していることになる、と指摘した。1972年、沖縄が返還されたとき、「集団的自衛権は違憲なので行使していない」、という政府見解が公表された(拙著『集団的自衛権の思想史』)。早川氏の価値観は、このような集団的自衛権の歴史が示すものと同じに見える。「面倒なことは、存在していないことにすればいいじゃないか」、という価値観である。

常日頃、憲法学を信奉する方々は、「権力を制限するのが立憲主義だ」と唱えている。それでは軍事力を保持する集団を、軍法又はそれに相当する法規範で制限することを推奨するのかと言えば、それには反対する。なぜなら軍法を作ってしまうと、自衛隊が軍隊になってしまうからだという。そして軍法がないので、自衛隊は「フルスペックの軍隊」(憲法学特殊用語)ではない、といった堂々巡りの話が始まる。このようなやりとりは、本当に「法の文理解釈」だと言えるのか。特定イデオロギーにもとづく政治運動なのではないか。

早川氏は、著作家ではないので、残念ながら著作活動は確認できない。ただし以前のブログ記事などを見ると興味深い記述があったりする。

「私は、自衛権は国家の自然権であり、憲法に明記されていなくても当然ある、という立場に立っている。」(早川氏のブログ「自衛権:個別的とか集団的という文言に力点を置く必要があるか?」:2017年11月25日)

「国家の自然権」があるという思想を持つのは自由だと思うが、法的根拠が何もない勝手な空想である。これが早川氏の言う「法の文理解釈」というものなのか。憲法学会に「国家の自然権」思想がはびこっているのは、私も知っている。戦前の大日本帝国憲法時代に、プロイセンに留学した者が憲法学教授になり、ドイツ国法学の観念論こそ世界最先端だと誇っていた時代があったことの名残である。

アメリカ人との戦争に日本が負けてしまったため、世界最先端を誇っていた大日本帝国憲法時代の憲法学は一夜にして消滅する危機にさらされた。よほど悔しかったのだろう。日本国憲法をドイツ国法学で解釈し続けるという離れ業によって、古い憲法解釈の伝統はいくつかの点で維持され続けた。

実際の日本国憲法は、前文において、「国民の厳粛な信託」こそが「人類普遍の原則」であると謳い、アメリカ流の社会契約論を基盤にしていることを明らかにしている。しかし日本の憲法学では、社会契約論は軽視され、なぜかフランス革命の伝統を引き継いでいるという壮大な歴史物語を根拠にした国民主権論にもとづく有機体的国家論が残存した。(拙著『ほんとうの憲法』参照)

しかし、もう大日本帝国憲法は存在していない。それどころか冷戦体制も終わってしまった。「面倒なことは、存在していないことにすればいいじゃないか」、という態度は、大人の態度でも何でもない、もはや単なる時代錯誤的な態度である。面倒を惜しまず、存在していないものは存在していないと認め、存在しているものこそ存在しているものとして認めていくのが、本筋である。

資格試験等を通じた既得権益を持ち、特定のイデオロギーを持つ者だけが集まる「ムラ社会」の雰囲気を理由にして、「ムラ」に属さない者を一方的に軽蔑し、排除しようする行為、それを「法の文理解釈」などといった言葉で脚色しようとするのは、是非やめてもらいたい。

ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判 (ちくま新書 1267)
篠田 英朗
筑摩書房
2017-07-05

編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年1月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。