トランプが金正恩と会うことをニクソンの米中頭越し外交に例える人がいるがナンセンスだ。あの頭越し外交は、沖縄と繊維貿易などをめぐる佐藤・田中内閣とニクソン政権、とくにキッシンジャーとの悪い関係があって困ったことになった。
さらに朝日新聞などが日米を離反させることに必死になって、その工作の結果、田中内閣が日中関係で焦って動いてアメリカの頭越しに台湾を見捨てるかたちで日中国交回復を断行してしまったので、ますますおかしくなった。
今回は日米関係は良いし、安倍内閣は朝日新聞がどう騒ごうがあせるはずもないからその意味では安心してみてられる。
トランプは安倍首相に金正恩との話し合いについて十分な協議をしアドバイスを求めるだろう。いまのところ、日本にとって好ましい方向に事態は推移している。
しかし、北朝鮮の核放棄を好まない偽リベラル勢力は、森友問題がごとき、些事で安倍おろしを画策しているが、これこそ、世界平和と核なき世界への最大の脅威といえよう。
なぜ、この会談が日本にとって都合が良いかと言えば、短期決戦だからだ。文在寅政権の南北対話でいちばん嫌だったのは、話合っている最中だからといって軍事的行動が先延ばしになったり、制裁が緩められたりして、そのあいだに核開発が進むことだ。
それは、日本への攻撃の精度を高めることになるわけだし、凍結されてもアメリカにとってはともかく、日本にとって意味のないものになりかねない。
だから、アメも出すなら出してよいから、一気に迫って、核放棄を実現することなのである。
今回の金正恩の譲歩は、安倍首相がトランプに強く念を押し、文在寅に「内政干渉」といわれるまでに強く米韓演習の延期はダメと迫り、ペンス副大統領と足並みを揃えて圧力をかけた成果だ。
また、発表の10分前にトランプと話して、留意点をしっかり指南している。
拉致問題についても、南北首脳会談でトランプにしっかりした形で決着を付けてもらう千載一遇のチャンスがやってきたということでもある。
気がかりは、米朝会談のまえに文在寅が金正恩と会って余計なことをしないことだけか。文在寅がもっとも平和の阻害要素だ。
北朝鮮にとってこの会談が望んでいたことかどうか、また、五月という早い時期を喜んでいるか分からない。先延ばしを図る可能性もゼロではないが、その場合は鼻血を出してもらうことを覚悟させるくらいの強硬姿勢で臨むことが会談成功の絶対条件だ。
会談場所は、北京とかソウルとか板門店は文在寅が余計なことしかねないからやめて欲しい。常識的にはスイスがいちばん良い。金正恩は暮らしたことがあるからリラックスできるしセキュリティも良い。パリという手もある。マクロンはうまくやるだろう。日本も大阪を提案してはどうか。母親の故郷だし、TDLは秘密来日して言ったそうだからUSJに行きたいだろう(笑)。こういうのは言うのはタダだ。
以下は、参考までに、拙著『日本人の知らない日米関係の正体 本当は七勝三敗の日米交渉史』(SB新書)の関係箇所の一部を引用しておく。手前味噌だが、日本外交のとても良い本だと自負している。
ニクソンはリアリストらしく、あまり筋を通すことに捕らわれずに実質重視の姿勢を内政外交で徹底しました。さらに、外交では、もともと共和党内の対立候補だったネルソン・ロックフェラーの顧問だったユダヤ人学者のヘンリー・キッシンジャーを譲り受け、価値観抜きの勢力均衡による平和維持をめざした外交を繰り広げました。
沖縄については、幸いにもジョンソン政権の方針が踏襲されました。ニクソンの不遇時代に岸信介らのグループが「面倒を見た」というようなことも助けとなったかも知れません。
そして、一九六九年一一月の佐藤訪米で「核抜き本土並み返還」が決定されました。ただし、この裏で佐藤首相の密使である若泉敬・京都産業大学教授とキッシンジャーらによる裏交渉があり、ここでは、「緊急事態に際し、事前協議で核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めることや、日本側による撤収費用負担、日本からアメリカへの繊維輸出の規制などについて覚え書きが結ばれました。
約束は秘密であったうえに、学園紛争や七〇年安保問題、革新自治体の増加などのなかで内政上の影響を心配したわけです。そして、佐藤首相は繊維問題についての約束を迅速に実施しませんでした。
このことがニクソン政権の日本への不信感を増大させました。一九七〇年の日本では大阪万国博覧会が開かれ高度成長のもたらした豊かさと世界の一流国として認められた誇りに酔いしれていたのですが、すでに暗雲はすぐそこまでやってきていました。
アメリカ政府は一九七一年七月一五日にキッシンジャー特別補佐官が訪中して周恩来首相と会談し、翌年のニクソン訪中について合意したことを発表しました。日本にとっては独ソ不可侵条約の締結以来のショックでした。
そして、八月には金とドルの交換停止と一〇%の輸入課徴金が発表され「ドル・ショック」と呼ばれました。一〇月には中国の国連代表権が北京政府に移行、一二月にはスミソニアン合意で一ドルが三〇八円となり、翌五月にはニクソンが訪中しました。
こうして踏んだり蹴ったりのなかで、佐藤内閣は支持率を下げ、七月には田中角栄が激しい総裁選挙ののち、佐藤が指名した福田赳夫を破って政権につきました。田中角栄(在職一九七二~七四年)は訪中し、国民政府との断交を受け入れて、日中国交回復が実現しました。
キッシンジャーは怒りましたが、お互いさまです。結局、アメリカものちに同じような条件で米中国交回復をしますが、日米の足取りが乱れて中国に乗じられたのは間違いありません。
しかも、一〇月には第四次中東戦争が始まり、オイル・ショックが訪れます。中東にどこよりもエネルギーを依存する日本はアラブ寄りの外交を展開し、ますます、アメリカを怒らせました。
このころが、日米関係が最悪になった時期でした。日本でアメリカに親しみを持つ人が一八%にまで落ちました。しかし、日本にとって幸運だったのは、ニクソンがウォーターゲート事件で失脚して第三八代ジェラルド・R・フォードが大統領になり、キッシンジャーの主導権が制限されたことです。