あらためて木村草太教授の集団的自衛権違憲論に疑問を呈する

篠田 英朗

テレビ朝日「報道ステーション」より:編集部

昨日のブログで、北岡伸一JICA理事長と私との対談記事を掲載していただいた『中央公論』を紹介しつつ、木村草太教授の「メディアにもてはやされている極端な意見を言う人」発言について、ふれた。

するとコメント欄で、木村教授が「清宮四郎も読んでいない」という理由で、国際法学者や政治学者らを批判しているラジオ番組があったことなどを、親切に教えていただいた。

木村教授が「清宮四郎も読んでいないのだろう」と断定する理由は、通常法には憲法の授権が必要であることを、国際法学者や政治学者が知らないから、だという。なぜこのような単純なことを言うのに、いちいち「清宮四郎」などといった気の利いたところを狙った名前を出すのかよくわからないが、そもそも一般法令が憲法に反してはならないことを知らない国際法学者や政治学者がいる、という主張は、すごい。

法学者ではないからといって、そんなことを知らない学者が、いるはずがない。学者でなくても、たいていの人が知っているのではないか。だが、ラジオを聞いている聴取者に、「そうか、誰だか知らないけど、憲法学者だけは知っている偉い先生のことを、国際法学者は政治学者は知らないから、憲法学者と意見が違ってしまうのだな」、という印象を与えるためには、木村教授のしゃべり方は、十分に効果的なのだろう。(関連していると思われる木村教授の団藤重光への言及については、下記点線以下を参照。)

「集団的自衛権は保持しているが、行使できない」というのが、2015年以前の政府見解であった。なぜ行使が違憲だとしても保持はしている、と言わなければならなかったのか。日本国が、憲法の手続きにしたがって、国連憲章を批准し、つまり「個別的又は集団的自衛の固有の権利」について定めた憲章51条を受け入れているからだ。

国連憲章の批准には、憲法41条が「国権の最高機関」と定める国会が、憲法61条が必要と定める「承認」を行う手続きがとられている。成立した条約は憲法98条2項にしたがって「誠実に遵守する」ことが必要とされている。

したがって批准の際に明示されなかった留保については、憲法典において明示的に禁止されている必要がある。そのため「憲法に集団的自衛権を明示的に否定する条項はない」ことが問題になるのである。国連憲章を批准して国際法秩序を実定法上も受け入れている以上、それに留保を付す場合、留保を主張する側のほうに立証責任がある。したがって集団的自衛権の違憲性は、違憲性を主張する側に、立証責任があるのである。

木村教授は、憲法13条の幸福追求権を、個別的自衛権の合憲性の根拠とするが、同時に集団的自衛権が合憲ではないことの根拠にもする。なぜなら国民が攻撃されることなくして、幸福追求権を保障するための措置をとってはいけないからだという(参照:弁護士・小山香氏のブログ)。

この主張が、相当な論証を必要とするはずの極めて大胆なものであることは、憲法13条が模倣していると想定される独立宣言を持つアメリカ合衆国では、集団的自衛権違憲論などが発生する余地がなく、国連加盟国のいずれの国も幸福追求権を理由にして集団的自衛権を否定するなどという主張をしていないことからも、容易に推察されるだろう。

木村教授の主張にしたがえば、日本の領土が攻撃されれば、他国が無人島だけしか攻撃しないと表明していたとしても、個別的自衛権の発動で武力行使が合憲になる。しかし日本への侵略の意図を持つ者が隣国に侵攻した場合であっても、集団的自衛権に該当するので、他国を援助して日本への攻撃を未然に防ごうとしたら、違憲になるのだという。

このような無味乾燥な形式論は、まったく国民の権利としての幸福追求権に配慮したものとは思えない。真に国民の幸福追求を保障するのであれば、幸福追求に対する深刻な脅威を防ぐための措置をとることが、その幸福追求権に「最大の尊重」をすることであるはずだ。憲法13条の論理にしたがえば、国民の幸福追求権への脅威があり、その脅威を取り除く措置をとることが「最大の尊重を必要とする」責務の遂行にあたるかどうかが重要になるはずだ。幸福を侵害する脅威は、様々な形で、様々な方角からやってくる。

ただし、それを除去する措置は、せめて個別的・集団的自衛権行使の範囲内で行うべきだ、という制約は、むしろ憲章51条がかけているのであり、憲法13条がそのような制約をかけているという読解は、とても自明だとは思えない。憲法13条がかけている制約は「公共の福祉に反しない限り」という制約だけであり、「公共の福祉」の制約が個別的自衛権の合憲性と集団的自衛権の違憲性の証明になるという読解も、とても論理的な解釈だとは思えない。

もしどうしても13条は、個別的自衛権だけの合憲性は示しているが、集団的自衛権の合憲性のほうだけは否定している、と主張するのであれば、より精緻な論理を提示するべきだ。

ちなみに憲法9条1項は、193の加盟国が批准している国連憲章2条4項と、基本的に同じ内容である。9条2項は戦力不保持と交戦権否認の規定でしかない。憲法13条の規定も、国際的に見ても極めて妥当な内容だ。それなのになぜ他の国連加盟国が自明視している自衛権の理解を、日本の憲法学者だけは否定し、日本だけは「日本への武力攻撃の着手のない段階での武力行使は違憲」と信じたり、日本だけは「必要最小限度」を制約概念として運用しなければならなかったり、「軍事力の行使は行政権に該当しない」などと主張しなければならないのか、憲法学者は、今一度、十分に論理的で、憲法学者の名前ではなく憲法典に根拠を見出す、精緻な議論を提供するべきではないか。

その際には、清宮四郎でも誰でもいいので、きちんと引用しながら、しかし精緻な論理を提示するべきだ。

「当然でしょ、『憲法判例百選』の解説者の憲法学者であればわかるのです」、といった態度だけでは、全く不十分である。

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<拙著『集団的自衛権の思想史』23~24頁からの引用>

木村教授は、法律の解釈はプロらしく行うべきだとして、団藤重光(刑法学の権威)『法学の基礎』を参考文献にあげる。しかし実際の団藤の議論を読むと、木村教授の意図は不明瞭に感じられてくる。団藤は『法学の基礎』において、「制定法の解釈」にあたって、「論理的解釈」、「利益の較量」、「その基準として法の奥にあるもの(立法趣旨)」をあげた。そして述べた。

「法解釈について種々さまざまな解釈が主体的に持ち出され、それが判例に反映し・・・判例の形成において、これらの見解の一つのもの、あるいはいくつかのものが、そのままの形においてであろうと修正された形においてであろうと、あるいは複合的な形においてであろうと、採用される。かようにして法そのものが客観的にさらに形成されて行くのである。・・・はじめからある解釈内容が客観的に存在していて解釈者がそれを発見するものと見るべきではなくて、上に述べて来たような法解釈の主体性を通じて法解釈が客観化されて行くということになるべきであろう。・・・かような個々の法解釈の見解における主体的=客観的構造が、司法制度という機構を通じ、判例という形式において、より社会的な意味における客観性=主体性を獲得するということになるのである。」(団藤重光『法学の基礎』[有斐閣、1996年]、354、356頁)

団藤の考えに従えば、絶対的に客観的な解釈者は存在しない。憲法学者が何人か集まると、客観的に不動の尺度ができあがるというわけではない。解釈者は何人集まっても解釈者にすぎない。「法の支配」を重視する立憲主義に立脚する社会では、絶対的な客観性を持つ解釈は存在しないという前提をとった上で、なお「司法制度」、つまり裁判所の判例に大きな重みが与えられる。団藤が述べているように、法解釈が特別なのは、裁判所という特別な権威を持った法解釈機関が存在しているからでもある。判例がない事案については、判例がないという基本的な事実から出発せざるをえず、憲法学者へのアンケートがその代替になるわけではない。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年4月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。