国際貢献の夢破れた僕らの世代

篠田 英朗

南スーダンでのPKO活動(陸自サイトより:編集部)

先日、上杉勇司・早稲田大学教授と藤重博美・法政大学准教授のお二人が編者となった新著『国際平和協力入門』の出版にあわせたシンポジウムに参加した。私も一章を執筆した本だ。

上杉さんとはもう二十年近い付き合いか。外務省「平和構築人材育成事業」も10年以上、一緒にやっている。藤重先生は、1992年PKO協力法ができた頃に抱いた強い気持ちで国際平和協力を研究する道を選んだ、と「あとがき」で書く方だ。

冷戦が終わり、日本も国際貢献をする新しい時代に入ったと、1992年PKO協力法ができたときに多くの人々が思った。当時、大学(院)生だったりしたわれわれも、そのように思っていた。私自身、1993年に、カンボジアPKOに選挙要員として行った際、「自衛隊の海外派遣は違憲だと思わないんですか!」といった質問ばかり浴びせかけられた。しかしそれも新しい時代の「産みの苦しみ」のようなものだろうと、思っていた。

しかし、その考えは違った。あれから四半世紀がたったが、何も変わっていない。相変わらずの中身のない政局。硬直した左右対立の図式。相手を糾弾するためだけの強い言葉の羅列。正論を避ける薄っぺらな議論。そして国際貢献に献身した方々に対する全く不当な扱い。

自衛隊は違憲なのか、合憲なのか。日本は国際貢献したいのか、したくないのか。日報に「戦闘」という言葉があると違憲なのか、何なのか。結局、表面的な話題を取り換えていくだけで、延々と同じ人々が同じ構図で同じ対決をしているだけのように見える。国際貢献など、ただの美辞麗句であり、都合よく捨てられる。

日本では、国際平和協力活動について語っていると、自分が反時代的な人間であるような孤独を感じるときがある。
シンポジウムでは、細谷雄一・慶応大学教授が、まとめの挨拶をされていた。細谷さんは、外交史が専門だが、私や上杉さんと同じような世代で、印象深いことを言った。

1992年、PKO協力法ができたとき、若者だったわれわれは、国際貢献をする新しい時代が到来する可能性に、胸を躍らせていたのだ。

細谷さんは言う。「夢は破れた」、と。
ああ、本当にそうだな、と、聞きながら、思った。われわれの「夢は破れた」のだ。

騙された、とは言わない。全く予想していなかった、わけでもない。だがこんなことになる可能性だけしかなかったわけでもないはずだ。変化は起こってもよかったはずだった。だが起こらなかった。認めよう。「夢は破れた」、と。

日本は、イラクに派遣されて困難な仕事にあたった自衛隊員の方々が困難な状況の中で書き続けた日報を、全て公開させたうえで、「『戦闘』という言葉があるじゃないか!」、といった調子で扱う、そういう国になり果てた。

国民の間でも支持が高く、日本が正当な国際社会の一員になるために必要な活動だという理解が広く共有されているにもかかわらず、実際には、できない。憲法が禁止しているからだという。

そうだろうか。嘘ではないだろうか。憲法を、特定の思想にもとづいて、特定の仕方で解釈する、特定の業界の人が力を持っているから、できないだけではないだろうか。

「PKOをやるなとまでは言っていない」、と言うかもしれない。しかし「これはダメ、あれはダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ・・・、日報で『戦闘』という漢字を使うこともダメです」。

それでも「まあ、PKOをやるな、とまでは言わないでおいてやる」、と言ってもらえるのであれば、深々とお辞儀してお礼を言わなければならないのか。

全ての責任は憲法学者にある、と言いたいわけではない。しかし日本の国際貢献の「夢は破れた」、という感覚。この感覚を持って、われわれは、これからの人生を生きていく。この不満をどこにぶつけて生きていけばいいのか。

日報に「戦闘」という言葉があった?だから?
困難な環境における困難な仕事を、現場で必死の努力で遂行していた人たちに、「日報に『戦闘』という文字があったから、問題だ」、と言う?はあ?

まるで四半世紀前の24歳のときに日本で感じたような、焦燥感を覚える。
あす(4月20日)、ニコニコ動画「国際政治」で、二時間+α、世界の紛争問題を語り続けていい、という企画をもらった。心の底から深く感謝する。こういう番組をやらせてもらえるのだから、まだ人生は投げ出すほどのものではないのだ。そう、自分に言い聞かせよう。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年4月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。