江戸幕府が人道的でなかったのは、飢え死にを出しても平気だっただけではない。司法制度もひどいもので、切り捨て御免などというとんでもない制度もあったし、火炙りなどのアドマゾ趣味全開の刑罰も満載だ。
切り捨て御免について、実際に滅多に行われなかったという人もいるが、そんなことはない。正式に認められた即席の裁判なしの死刑執行だった。ときどき、これは酷いという場合には、語り継がれているが、とくにそんなことなければ、珍しくもないので記録にも残らない。
それはまた、別の機会に論じるとして、ここでは、拷問のひどさと、正式の裁判を経た刑罰のひどさを『江戸時代の不都合すぎる真実』(扶桑社新書)で紹介したのでさわりを紹介しよう。
永倉新八の「新選組顛末記」には、池田屋事件の発端になった古高俊太郎正順の拷問の様子がしるされている。
「足の甲から足の裏まで五寸釘を打ち貫いて、足首にロープを縛りつけて逆さ釣りにし、足裏に突き抜けた五寸釘に百目ろうそくを立てて火を点し、溶け落ちる熱いろうそくを釘を伝わって傷口に流れ込ませた」
といった調子だ。これが、京都守護職直属の新撰組の仕業で、刑罰も残酷でサドマゾ趣味全開だった。
「梟首・刎首・絞殺に死刑は限る」というお触れが政府から各藩に対して出されたのは1868年のことだ。
火あぶりといえば、ジャンヌダルクのように、宗教裁判などで使われたが、イギリスでは1790年に廃止されている。ところが日本では放火犯に対して、明治維新まで行われていた。
磔では、角材に縛り付け脇腹から対角線上の肩へ向けて槍で突き、両側から刺し、二、三十回突き続け、喉を突いて留めとしました。鋸挽は、地中に埋めた箱に罪人を入れ首を出させ、通りがかりの人にのこぎりで罪人の首を挽かせた。
このほか「牛裂き」、「釜煎り」、「獄門」、「石子責め」などあらゆる残虐な死刑があって、藩ごとに自慢の独自刑罰もあった。
警察も検察官も裁判官も同一人物で、不当な死刑判決に上訴もなにもできなかった。
これでは、野蛮国だと思われて不平等条約改正などとんでもないといわれても仕方なかった。これでも、なお、江戸時代はやさしい文化的な時代だったなんて仰る方がおられるのが不思議だ。