米国の「強さ」は誰の為か

長谷川 良

大統領就任500日を祝うトランプ大統領(2018年6月4日、ホワイトハウス公式サイトから)

トランプ米大統領は5月8日、イランの核合意から離脱すると表明した直後、欧州のメディアで政治漫画が出ていた。曰く「大統領、どうしてイラン核合意から離脱するのですか。国際原子力機関(IAEA)や欧州の同盟国はイランはこれまで合意内容を遵守していると報告しています」と聞くと、トランプ氏は、「合意書のオバマの署名が気に入らないのさ」と答えているのだ。トランプ氏は合意内容や検証状況などには関心がなく、合意書に記入されたオバマ氏の署名が気に入らないというのだ。

トランプ氏が大統領に就任して500日が経過したが、トランプ氏が取り組んできた政策は、オバマ前政権で決定した内容を覆すか、否定することに多くのエネルギーが注がれてきた。

オバマケア(医療保険制度改革)に始まり、気候変動対策の国際的取り決め「パリ協定」離脱宣言、外交交渉の成果と言われた「イラン核合意」離脱まで全てオバマ政権の8年間で決まったものをひっくり返すものだ。

精神分析学のメッカ、ウィ―ン派の精神分析学者ならば直ぐに「トランプ氏のオバマ・コンプレックス」と呼ぶかもしれない。オバマ政権の実績を破棄、ないしは無効にする度、トランプ氏は一種のカタルシスを感じてきたのだろうか。

ちなみに、オバマ氏の現職時代、ある会合に参加していたトランプ氏に向かってオバマ大統領は演台から揶揄った。そのビデオを見る限りでは、トランプ氏は苦々しい顔をしながら笑いを返していた。侮辱されたこの時の体験がトランプ氏をオバマ嫌いにしたのかもしれない。人間は公けの場で侮辱された場合、その体験を決して忘れないと聞いたことがある。

不動産王のトランプ氏は“米国ファースト”を標榜してホワイトハウス入りした大統領だ。同氏にとって、オバマ政権は米国ファーストではなく、米国ラーストだったと受け取っているのだろう。確かに、オバマ氏は米国の力を全面的に出して交渉したり、直ぐにその世界最強の軍事力を行使することはなかった。民主党出身の米大統領らしく、戦争嫌いであり、相手国との妥協で問題を解決しようとした。

オバマ氏は、対北政策では北が非核化の意思を表明しない限り対話しない「戦略的忍耐」を続け、8年間、ほぼ沈黙してきた。その結果、北は核開発を進めることができた。北は弾道ミサイルに水爆を搭載できるまで核開発を進めてきているのだ。北にとって、オバマ氏ほど都合の良い米大統領はなかったわけだ。

一方、トランプ氏は北朝鮮に対し「世界最強の制裁」で警告し、軍事介入を何度も警告してきた。すなわち、米国のパワーを駆使した力の外交を展開し、平壌に圧力を行使してきたわけだ。

米国の対北政策は前・現政権でまったく好対照だ。どちらの政策が正しいかは即断できないが、至上初の米朝首脳会談、南北首脳会談などの道を開き、ひょっとしたら、北の非核化も可能かもしれないという点で、トランプ氏の対北政策はオバマ政権より効果的だったといえる。オバマ政権の寛容、静観は、綺麗ごとで事を済ましたいという思いが強く、朝鮮半島の非核化云々に無関心だった。

当方は外交として米国第一を批判する気はない。外交は国益最優先であり、米国だけではなく、独立国家を名乗る以上、全ての国の責任者は先ず、自国領土、自国民の権利擁護を最大の課題とする、という意味でだ。ただし、問題は次だ、米国第一が結果として米国ラストをもたらし、国民が大きな負担を担うことも出てくるかもしれないということだ。

トランプ氏の米国ファーストは今、貿易問題に向けられてきた。カナダで開催された主要国首脳会談(G7)では、米国は同盟国との対立を深めていった。

トランプ米大統領は鉄鋼、アルミに対し輸入関税を導入するばかりか、自動車の輸入に対しても同様の関税導入といった処置を次々と打ち出し、ドイツやフランスなどから強い反発の声が飛び出した。そしてトランプ米政権は今月15日、対中制裁措置の発動を決定し、中国からの輸入品に25%の追加関税を課すしなど、厳しい対応に出てきた。米中両国の貿易戦争の様相も深めてきている。

トランプ氏の主張にはそれなりの根拠はある。対欧州連合貿易、対中貿易で米国は巨額の貿易赤字を抱えている。例えば、米国の対中輸出総額は約1300億ドル、対中輸入総額5050億ドル、といった具合だ。その赤字額を見る度、トランプ氏は憤りを感じていることが分かる。

米国は軍事力で世界最強国であり、経済では世界一の経済大国だ。トランプ氏はそのパワーを駆使して、貿易戦争に臨み、対北政策を行使してきた。トランプ氏の発言には「いざとなれば、米国は…」といった警告、威嚇が常に含まれている。トランプ氏は力、パワーを信じている。力で相手の言い分を屈服させ、譲歩させることができるという信念の持ち主だ。

問題は、不動産の売買では相手は一人、多くても数人だが、外国貿易はそうではない。グローバルな時代、多くの企業は国際企業だ。例えば、スイスの主要企業はほとんどが国際企業だ。国境を越えて商いが行われている。そのような時代に一国の大統領が経済統計を基に相手国に報復したとしても効果があるだろうか。むしろ、自国にマイナスの影響が出てくるかもしれない。日本の高品質の商品を購入できなくなった米国企業は品質の維持に苦心する、といったケースも考えられる。

外交分野でも経済でも共生共栄の道を模索しなければ繁栄できない時代圏にきている。一人勝ちはもはや考えられない。当方はこのコラム欄で一度書いたが、トランプ氏にはオーストラリアのメルボルン出身の哲学者ピーター・シンガー氏(Peter Singer)の“効率的な利他主義”を学んで頂きたい(「トランプ氏はシンガー哲学を学べ」2017年2月11日参考)。

シンガー氏は、「利他主義者は自身の喜びを犠牲にしたり、断念したりしない。合理的な利他主義者は何が自身の喜びかを熟慮し、決定する。貧しい人々を救済することで自己尊重心を獲得でき、もっと為に生きたいという心が湧いてくることを知っている。感情や同情ではなく、理性が利他主義を導かなければならない」と語っている。

世界最強国の米国が自国ファーストを標榜し、暴れ出す時、世界は大混乱に陥ってしまう。逆に、米国が利他主義を唱え、米国に与えられた内外の恵みを他国と共有する時、世界は平和を獲得できるのではないか。トランプ氏は今、大きな分岐点に遭遇している。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年6月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。