「不毛な争いだ…」
民事訴訟の代理人としてフル稼働していたとき、しばしば感じた印象だ。
当事者同士にとっては極めて重要なことなので、決して訴訟当事者を侮蔑している訳ではない。
民事訴訟は、究極の「マイナスサムゲーム」ということだ。
原告と被告の間で、増加することのない一定の財を奪い合う。
訴訟となれば、奪い合うのに時間も費用もかかるので、費用の分だけ双方にとってマイナスになる。
例えば、原告が被告に対して1000万円を支払えという訴訟が提起された場合、請求が全面的に認容されれば被告から原告に1000万円(と遅延損害金)が移転する。
請求棄却となれば、被告はそのまま1000万円を保持できる。
このプロセスは、1000万円が原告に移転するか被告が保持し続けるかであって、決して1000万円が増加するものではない。
弁護士費用や裁判所に納める印紙代などの訴訟費用、さらには時間も要するので、どちらに1000万円が帰属しても費用の分だけマイナスになる。
対して、経済活動の多くは付加価値を生み出すものだ。
原材料を自動車として組み立てれば、原材料のままよりはるかに価値の高い自動車が生まれ、その差額が付加価値となる(一国で生み出される付加価値の合計がGDPだ)。
ところが民事訴訟は、「誰かの利益を損なうことなく他者の利益を増やすことができない」というパレート最適の状態から、訴訟コストの分だけトータルの利益が失われる。
それでも訴訟に社会的意義を見いだすとすれば、「公平性」の実現だろう。
親の遺産を長男が独り占めして他の兄弟に渡さないのは、明らかに不公平だ。
現に、親が亡くなった時、たまたま近くにいる親族が事実上遺産を独り占めしてしまうケースが多く、頻繁に「著しい不公平」が発生している。
遺産分割は、調停・審判手続だが、民事訴訟も「不当に利益を得ている者」から「不当な不利益を受けている者」に対する財の移転プロセスであり、「公平性」の実現だ。
自動車事故は、損害保険のおかげで当事者の負担するコストが著しく減少している。
契約関係にない当事者間で、突然債権債務が発生してしまう自動車事故は、民法上の「不法行為」と呼ばれている。
「不法行為」というと悪行のような印象を与えるが、民法上の「不法行為」の本質は「損害の公平な分担」だ。
自動車事故で発生した損害を、当事者間でどのように公平に分担するかということだ。
双方が損害保険に加入していれば、保険会社同士で早期解決がなされるケースが多い(特に物損の場合は)。
怪我や死亡のような人損の場合でも、損害額の算定方式が確立されており、過失割合に争いがなければ、手計算でも30分もあれば損害額が計算できる。
私の大学時代に民法第二部を担当していた平井教授(当時)の説は、「何年生きるか分からないものを計算式で一律に決めるのは不当で、損害額の決定は裁判所の判断に委ねるべきだ」という趣旨だったと記憶している。
しかし、そんなことをしていたら死亡事故の度に事件が裁判所に持ち込まれ、裁判所はパンクしてしまう。
現代のシステマティックな処理をおかげで、「マイナスサムゲーム」の「マイナス」が激減しているという事実を忘れてはならない。
システマティックに処理して費用を最小限に抑えても、「損失の公平な分担」を実現するプロセスは相も変わらずマイナスサムゲームだ。
社会全体の余剰を増大させるような法律の活用はないものかと、私は常々考えているがなかなか思いつかない。
私の頭の中に、「国家による規制は最小限に抑えるべきだ」というミルトン・フリードマン的な考えが根強く染みついていることが原因かもしれないが…。
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年7月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。