「宗教」といえば、日本ではいいイメージをもつ人は余り多くいない。「どうして宗教が必要か」、「神が存在してもしなくても関係がない」、「宗教は人を惑わすだけだ」、といった声を聞く。いずれもそれなりの理由はある。
多くの「宗教」が存在し、それぞれが自分の「宗教」の教えこそ正しいと主張する。同時に、「宗教」の名で多くの犯罪が行われ、紛争と戦争、テロ事件が繰り返されている。「宗教」は現代人にとって最も必要性のない、魅力のない世界になってしまった感じさえする。
当方は「宗教は将来、なくなるだろう」と考えている。「宗教」が必要でない日を迎えたいと真剣に願っている。なぜならば、「宗教」が必要であるということは、とりもなおさず人間が幸せでないからだ。ただし、その日を迎えるまで、「宗教」はやはり人間に深く関わってくるだろう。
それでは「宗教」はいつ始まったのか、誰がその創始者だったかを考えてみた。旧約聖書の「失楽園の話」はご存じだろう。神の戒めを破ったアダムとエバは「エデンの園」から追放される。アダムとエバの間にカイン(長男)とアベル(次男)の2人の息子が生まれたが、兄は弟を殺害した。人類の始祖アダムの家庭で姦淫と殺人が起きた。
神はアダムとエバの間に第3の息子を与える。その名をセツと呼ぶ。そしてセツには一人の男の子エノスが生まれた。エノスはヘブライ語で「弱さを持った人」を意味する。ドイツの著名な神学者オイゲン・ドレヴェルマン氏によると、アダムは「人」を意味するが、エノスは(本来の人ではない)「小さな人」を示唆しているという。すなわち、神はエノスから歴史のやり直しを始めたのではないか。
神は自身の血統を守るためにセツを立てた。セツも堕落したエバの血を引き継いでいる点で完全な人間ではない。セツは堕落前の「人」を意味したアダムとはなり得ない。神にとって、「身代わり」を意味するセツは2番目の選択肢だったわけだ。セツの血統を通じてノアが誕生する。
興味深い点は、エノスが生まれた時から、「人々は主の名を呼び始めた」(「創世記」第4章26節)という。ドレヴェルマン氏は「この時から宗教が始まった」と指摘している。「宗教」が誕生した瞬間だ。
アダムとエバが神の戒めを破る前までは神と一問一答できたが、堕落後は神とのチャンネルが途絶えた。エノスの代に入ってから、人々は神に助けを求めだしたというのだ。
アブラハムを「信仰の祖」とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも砂漠で誕生したことから、唯一神教は「砂漠の宗教」と呼ばれる。砂漠以外に何もない環境圏で人は天を仰ぎ、神に助けを求めていった。それが後日、宗教となって世界に広がっていったわけだ。
物質的に恵まれた環境圏に生きる人が神を見出すのは難しい。イエスは「富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」(「マタイによる福音書」第19章24節)といわれた内容だ。
もちろん、物質的に恵まれていても心が満たされなく、寂しい人は多い。信頼できる人はなく、愛する人がいない、文字通り砂漠のような心の世界を生きる現代人は少なくない。日本の演歌には「都会の砂漠」という表現の歌詞が多い。失った神に出会うためには、人は「砂漠」の世界を通過しなければならないのだろうか。
まとめると、アダムとエバばかりか、その息子カインとアベルを失った神は、堕落の血統の少ないセツを立て、その息子エノスの代から自分を求めていく「宗教」をたてたわけだ。
人間にとって失った神との対話の道を切り開くことは容易でない。宗教によっては信者に難行を強いる。一方、神にとっても同様だったのだろう。イエスを送るまで神は4000年の年月を要している。
「宗教」は本来、神と人間の関係を回復することが目的だった。それ以上でもそれ以下でもない。現代の宗教界が権威をなくし、生命力を失ったのは本来の起点を忘れ、組織の拡大やビジネスを優先してしまった結果だ。宗教界はエノスの時代に戻るべきだ。
ちなみに、聖パウロは「コリント人への第2の手紙」12章で「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。なぜならば、私が弱い時にこそ、私は強いからである」と語っている。「弱さを持った人」を意味するエノスから「宗教」が始まったのは決して偶然ではないわけだ。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年9月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。