新潮45は日本社会のタブーに挑戦し爆死した(追記あり)

八幡 和郎

新潮45の休刊については、以下のような認識が流布されている。

もともと販売部数が伸びず焦っていたところに、保守系の読者が喜ぶような記事を載せて保守系メディアへ転身を図った。

ところが、「正論」「月刊hanada」「Will」などと違って左派系の執筆者による出版物も多く出していたので、彼らから執筆ボイコットで迫られて、それに屈したというようなものだ。

しかし、そういう見方は、私はおかしいと思う。なぜなら、新潮45の編集方針は、「正論」「月刊hanada」「Will」といった、それぞれに特色はあるが、保守系という色彩が明確な雑誌とは異質だったからだ。

そもそも、新潮社は、言論界であまり扱われないようなタブーに挑むということが得意であることは、FOCUSで一世を風靡したことでも明らかだった。当時、ライバルのFRIDAYなどが会社としての判断で自制したことも見受けられたのと比べて、反骨精神が際立っていた。

週刊新潮のお家芸のなかには、朝日新聞攻撃もあったことは、よく知られているとおりである。あるいは、ことごとく名誉毀損の裁判で負けていたから、あまり名誉な話でないと思うが、創価学会叩きをして、厳しい批判にさらされたこともある。

「新潮45」という雑誌も創刊からずっと、戦後民主主義への懐疑という視点は一貫していたのであるから、最近の路線がかつてと大きく違うというわけではない。

しかし、いわゆる保守系マスコミといわれるものと違うのは、その批判対象が、保守系の人が喜ぶ人たちやテーマだけではないことだ。

たとえば、私もなんどか新潮45に書かせて頂いているが、もっとも主要なテーマは皇室である。その内容は、ひとことでいえば、皇室制度の安定を図るためにはという視点ではあるが、「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」(2017年1月号)、「眞子さまご結婚後の『生活設計』を考える」(2017年7月号)、「『リベラル皇室』の光と影」(2018年4月号)など、皇室の現状に対するかなり厳しい批判とも読める内容であるので、いわゆる保守系誌では、読者のそれなりの部分にとって違和感があるということで、とうてい載せてもらえない内容である。

杉田水脈氏の問題の論文と同じ号(2018年8月号)に載せたのも、「不公平な受験を生む『天声人語』商売」というもので、朝日新聞批判ではあるが、大学の入試問題の多くが、その前年あたりの朝日新聞紙面から出題されているのは朝日新聞の購読層である大都市・富裕層に有利で、受験生に不公平だし、また、朝日新聞自身が、「購読しないと受験に不利」などという宣伝をしているのはいかがなものかというもので、左とか右とか言う問題でない。

「国会でバカ騒ぎする『偽リベラル』野党」(2018年5月号)も、本来のリベラルとは何かという観点からの論旨で、保守派的な立場で書いたものでない。

「朝日新聞と岸家、積年の怨み」(2018年2月号)は、戦前の朝日新聞の主筆として活躍し、リベラルな政治家の代表と言われた緒方竹虎の急死が、保守政党におけるリベラル派の基軸を失わせることになり、朝日新聞もまた迷走を始めた原因であり、朝日新聞は否定的なことばかりいわずに、良質なリベラル政治家を育てるほうに努力したらどうかというとても建設的な話である。

杉田論文が載った8月号と、問題の10月号の中間の9月号では「『茶の間の正義』を疑え」という特集が組まれていえるが、既存のいわゆるリベラル系メディアが支持する風潮に疑問を呈しているが、イデオロギーとは関係ない。

【特集】「茶の間の正義」を疑え

◆裏口入学、何が悪い/大江舜

◆「親なき子」を作り出す生命科学でいいか/山折哲雄

◆「宴会自粛」は最小限でかまわない/八幡和郎

◆「おかま」はよくて「男」はダメ

お茶の水女子大の「差別」/樫原米紀

◆災害情報、気象警報

テレビの「L字型画面」に腹を立てる/小田嶋隆

◆いいかげんにしろ、喫煙者いじめ/高橋政陽

◆「ワンオペ育児」で上等じゃん/角田朋子

かつて特集した、「『人権』に軋む日本」(2016年9月号)だとか「見せかけの『正論』について」(2016年11月)、「『よりよい社会』の泥沼」(2007年3月号)などにしても同様である。

新潮45が挑んできたのは、言論界の常識や社会的タブーに挑戦することであって、それに、左右を問わず、震撼する人は多かったと思う。

しかし、それでも、最近の新潮45は保守系メディアに似てきたという指摘はあるし、それはある意味では見当外れでもなかった。

それには、はっきりした理由がある。それは、保守系の嫌がることは、いわゆるリベラル系メディアがさんざん取り上げてきているので、タブーなどないのである。

しいていえば、皇室くらいだろう。一般的な反天皇制的な論評はいいのだが、具体的な問題になると、週刊誌やネットメディアの独壇場であって、新聞、テレビ、月刊誌の臆病ぶりはひどいものだ。それ以外では、かつては、国税庁や大蔵省批判は、税務署から江戸の仇を長崎で討たれかねないとして自粛気味だったが、そんなタブーはどっかへ行ってしまった。

それに対して、左派・リベラルの側には、山ほどタブーが存在する。とくに、人権、環境、健康、福祉などに関係した団体や個人は、それを問題にすると、差別だとか意識が低いと攻めてくる。客観的な基準などなく、彼らがけしからんと認定すれば、御説ごもっともと左派リベラル系メディアは同調するし、与党内でも擦り寄ってごまをする愚か者がいる。

あるいは、与党系政治家は徹底的にあら探しされるのに、野党政治家に日本のマスコミは甘い。

そういうなかで、一般マスコミが取り上げないタブーには、保守系の喜ぶテーマが多くなるのは自然だ。また、一般マスコミが取り上げないから、これを取り上げると売り上げは伸びる。保守系の喜ぶような見出しを付けたり広告で大きく扱うと少し固定読者にプラスがあるということはあったのかもしれない。

そのことが、新潮45の右傾化と受け取られることはあったかもしれないが、毎回の記事内容の全容を俯瞰すると、文芸に強い新潮社らしい企画も多く、とくに、死生観・人生観にかかわるものに読み応えのあるものが多かった。

編集についていえば、まず、取材の充実において、さすが、週刊新潮の会社だけのことはあった。

原稿のチェックについては、執筆者の自主性を尊重するということと、編集者としての責任をどう調和するかというのは、常に難しいことだと思う。そして、雑誌に書くとき、雑誌の編集部によって非常に大きな個性がある。

たとえば、ある新聞社系の雑誌は、新聞社としてのスタイルと読者層へのアピールににこだわって、かなり書き換える。別の雑誌は、細かくはないが、編集長からメリハリをつけるために強調すべきところを強化してくれという注文が来るといった具合だ。

それに比べると新潮45は、事前の調整は綿密だが、できあがった原稿については、著者の自己責任にまかしてくれる度合いが多かった。その結果、ほかの雑誌なら、書かせてもらえない思い切った表現への許容度が高かった。

それが、今回、ある意味で仇になったのだが、そういう編集姿勢が間違っているとは思えない。

一般的に、以前に比べて雑誌の締め切りと発売日は非常に接近している。それは、ネット時代にあっては、かつてのような時間をかけていては、ネットメディアに対抗できないからである。その意味で、かつてのように編集者とキャッチボールを繰り返すことがなくなったのは、仕方ないように思う。

いずれにしても、あっちこっちでタブーに挑戦して、杉田水脈氏は彼女の主戦場とは思えない分野での揚げ足を取られて、ジャンヌダルク状態だし、新潮45は大出版社であるがゆえに、卑怯な圧力をかけられて爆死した。

おりしも、本庶佑さんのノーベル賞受賞について、「教科書をも疑え」ということが本庶教授の箴言だといってマスコミは褒め称えている。

そういう言葉がもてはやされているのと対照的な、言論の世界での、「タブーに挑戦することは許さない」という空気との落差は残念である。

ただし、本件で新潮社を批判するつもりはない。(取材が進んでいることを知っていた対象者も含めて)新潮45の休刊で胸をなで下ろしている巨悪が多いであろうことは無念だが、これまでのタブーに挑戦してきたことが、それをしてこなかった出版社に比べて批判される言われもない。

その意味で感謝の気持ちとともに、ご苦労様といいたいし、これは活字メディアの終焉に向かう挽歌かと危惧するものである。

追記3日6:00  参考:問題の新潮45の10月号の特集で私も「杉田議員を脅威とする『偽リベラル』の反発」という論考を寄稿しているが、そこで基本ポジションとして、以下のように書いている。)

『新潮45』誌上における杉田水脈代議士の記事は、世間のLGBT助成なんでも万歳という風潮に疑問を呈するものだったから、批判的な反論は覚悟の上だっただろう。

私自身も、欧米における価値観の変化に日本はなにごとも敏感に対応しないと国益は守れないと思っている「脱亜入欧論者」だから、杉田氏の意見に賛成ではない。

しかし、LGBTに対して侮蔑的な言葉もなく、抑圧的な政策をとるように提案したわけでもなく、予算配分など政策的な優先順位を論じただけ。杉田氏自身もLGBTに偏見を持っていないと明言しているのだから、差別主義者だと批判する余地などない。少し言葉足らずで揚げ足を取られているだけだ。

杉田氏への批判は、陸海軍の予算の内容に異議を唱えた政治家を、愛国心が足らないとつるし上げた戦前の軍国主義者と同類だ。

つまり、杉田氏とLGBT問題について意見が違うことを前提に、杉田氏の論文に書いてないことを、あたかも書いてあるように糾弾することや、杉田氏に対する「メディア・リンチ」を批判し、あわせ、政治家・言論人としての杉田氏の特徴について分析し、その新しさが偽リベラルに脅威を与えたことが批判されている原因とみるべきだというもので、杉田擁護という点以外はとくに問題とされているわけでない。

また、特集をなすほかの七人はそれぞれ違う立場に基づいて書いており、とくに問題になっている小川栄太郎氏の論考も含めて、その内容に賛同していないことを確認しておく。