シェアリングエコノミーに規制は「必要 or 不要」?

高幡 和也

従来、「貸し出す」というサービスは個人法人問わず、企業(事業者)と個人(消費者)の間で、レンタカーやレンタルCD・DVD、着物やドレスの貸衣装、不動産賃貸など、多様な「ビジネス」としての取引が行われてきた。

一方で、スマートフォンなどの普及によって、いつでもインターネットに繋がれる環境が社会に浸透してきたことで、個人間の取引であるシェアリングエコノミーも普及が進んでいる。

本年7月25日に内閣府が発表した報告書の試算によると、2016年のシェアリングエコノミー全体の生産額は4700億~5250億円と推計されている。

政府は以前からシェアリングエコノミーの促進にかなり「前のめり」だ。しかし、シェアリングエコノミーと従来からあるビジネスとの境目は案外曖昧なのである。

例えば、実際に貸し出されるものが個人の遊休資産などではなく、「シェアビジネス用」として新たに用意されたものだとしたら、それもシェアリングエコノミーなのだろうか。

いくつか例を挙げてみよう。シェアリングエコノミーの旗手とされる民泊だが、個人が民泊事業を行うために建物を借り、その借りた建物を民泊施設として貸し出すという所謂「又貸し」のケースも少なくない。

このようなケースの場合、その「又貸し行為」が、たとえ建物所有者の同意を得ていたとしても、これをシェアリングエコノミーと呼べるだろうか。

もちろんシェアリングエコノミーという言葉に世界的なコンセンサスを得た定義は無いので、「広義ではこれもシェアビジネスだ」という方もいらっしゃるだろう。

では、もうひとつ例を挙げてみる。今後、日本でもその運用に注目が集まる「ウーバー」などに代表される配車システムについてである。

以下は昨年6月の日経新聞の記事だ。

ギグ・エコノミーは、遊んでいる自分の時間や車、家をマネタイズできるというのもうたい文句の一つだった。しかし、もう仕事のために必要な道具を揃える、という逆転が起こっているのだ。ドライバーたちは普通の人というよりは、もはやフリーランスのプロだ。
2017年6月5日付 日本経済新聞より一部引用
※ギグ・エコノミーとはネットで受発注する単発の仕事の意

この記事は、サンフランシスコやシリコンバレー地域で、ウーバーやリフトなどの配車システムの「ドライバーの層や質」が変節したことを指したものである。

つまり、初めは個人の遊休資産(ドライバーの時間やスキル)の有効活用だった配車システムビジネスが、それを「専業として稼ぐためのビジネス」に変化したことを示しているのだ。

もちろん、ひとつのビジネスモデルが社会的なニーズを受けて様々な形態に変化したり、規制緩和を促したりすることは必要だろう。前述の配車システムのドライバーのように働き方が変化したり、さらに多様化が進むことも必要かもしれない。そしてそれらがイノベーションを起こす「基」になる可能性も大いにある。

だが、シェアリングエコノミーが本来の「個人資産のシェア」という意義から離れてしまうと、シェアリングエコノミーは発展すべき方向を見誤ってしまうのではないだろうか。

当然に規制緩和は常に必要だし、個人と個人を結ぶシェアビジネスも、社会インフラ・経済インフラとしてさらに発展すべきだ。だが、時折見かける意見として「個人が創意工夫して自由な経済活動を行うのがシェアリングエコノミーの本質なのだから規制はいらない」というものがある。しかし、その個人が「フリーランスのプロ」として活動する場合でも一切の規制は必要ないといえるだろうか。

実際に、シェアリングエコノミーが浸透しているといわれる欧米でも民泊や配車システムに厳しい規制を設けている、または今後設けようとしている都市も少なくない(ニューヨーク、ロンドン、パリ等)。せっかく日本はシェアリングエコノミーの後発国なのだから、経験を踏まえた欧米の規制状況をじっくり見極めるのも一計だろう。

とはいえ、日本にとって、「シェア」という考え方が浸透すること自体は望ましい。人口減少が加速していく日本においては、造っては壊すという社会構造からストック型社会への移行が避けられないのと同様に、「所有して利用する」から「共有して利用する」という社会への移行も避けられないだろう。

人不足、空き家対策、税収減による行政サービスの低下など、人口減少社会の諸問題を包括的に解決するための「共助システム」として、シェアリングエコノミーの発展は日本にとって大歓迎すべきなのである。