仙谷元官房長官が肺がんで亡くなられたと報道されていた。55歳を過ぎた後の私が波乱万丈の人生を歩むことになったのは仙谷氏の影響が大きい。2010年に、国立がんセンターの研究所長に就任したが、このきっかけが仙谷先生との出会いだった。
しかし、人間関係に苦しみ、朝日新聞に叩かれ、総合科学技術会議議員からは「がんに免疫療法など効くはずがない」と最低のC評価を受けた。当時の研究所副所長だった中釜斉先生(現、国立がん研究センター理事長)が支えてくれたが、気持ちが折れてしまった。伏魔殿の恐ろしさを知った時でもあった。
そんな時に、励ましていただき、2011年の初めに内閣官房参与・内閣官房医療イノベーション推進室長という重職に推薦していただいたのが仙谷氏だった。仙谷氏は胃がんサバイバーであったので、がん克服に対する想いが強かった。
「日本を変える」気持ちで充実した日々を送っていたが、それも3月11日までだった。大震災の日から、混乱が始まり、自分の力の限界を知り、色々な思いも重なって、翌年3月の末にシカゴに飛び立った。もちろん、二度と日本に戻るつもりはなかった。しかし、ネオアンチゲンを初めて提唱したハンス・シュライバー教授と出会い、ネオアンチゲン療法の可能性を自分の目で見て、ネオアンチゲンを認識できるT細胞受容体遺伝子を導入したT細胞療法にさらなる未来を見つけた。日本でこれを自ら手掛けたいと思って帰国した。少し落ち着いた後で、一度ご挨拶にと思っていた矢先の訃報だった。
私は徳島には縁が深い。数年前にがんで亡くなられた中村博彦参議院議員にも可愛がっていただいた。渡米する前に、すぐに日本に戻ってくださいと励まされた。今年の2月に徳島で用務があった時に、お参りさせていただいたが、帰らぬ人となったのは残念だ。
そして、20年前に急死した、今でも忘れることができない人が、大塚製薬GEN研究所の申所長だ。親友であり、飲み仲間であり、兄貴分でもあり、研究面では弟分だった。飲んでいても気が許せる相手だった。クモ膜下出血で急死されたが、葬儀では悲しくて弔辞が読めなかった。人前で涙が止まらなかったのはあの時だけだ。葬儀の後、奥様が数百万円に及ぶお香典を全額、私の研究費として寄附していただいた時には胸に詰まって、心で号泣した。
仙谷先生の訃報を聞き、徳島つながりで二人の方の顔も急に浮かんできた。
がんを克服する。この一助となるために日本に帰国したが、心が折れた時に励ましていただいた方が、肺がんで天に召されてしまった。7年前の渡米前の挨拶をさせていただいたのが最後となった。シカゴで学んだこと、日本が世界と競争するためのがん医療の方策など、是非、話をしてみたかった。帰国の挨拶もできず、残念だ。
心から仙谷由人先生のご冥福をお祈りしたい。
編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2018年10月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。