日本の童謡に、「七つの子」というのがある。野口雨情作詞、本居長世作曲で、1921年に発表された。「烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの子があるからよ」という歌詞は、日本人なら誰でも知っているが、誰も「七つ」の意味が分からずに、変だなと思い続けてきたはずである。7歳のカラスは子ではないし、7羽の雛を同時に育てるカラスはない。
啼く理由を問われたカラスは、説明責任を果たすべく、子を思う気持ちを述べたのだが、このような意味不明な答えでもって、説明責任は果たされ得たのか。これに対して、1980頃に、ザ・ドリフターズの志村けん氏は、「カラス なぜ啼くの カラスの勝手でしょ」という革命的新説をもって応え、一世を風靡したのである。まさに、志村けん氏の明察によって、説明責任は、射程の限界を明確に画されたのであった。
志村説は、説明責任と結果責任の関係を、明瞭に、かつ極めて分かりやすく示すものとして、非常に有益である。ギャアギャア啼いてうるさいカラスに対して、子を思う気持ちで説明責任を果たされてしまうと、石をもって追うことはできなくなるが、勝手でしょという結果責任の全面的引受けで対抗されれば、撃退することに何らの躊躇も感じることはない。
発言も含めて、ある行為がなされたとき、その行為者は常に結果責任を負うはずである。これは普遍的な原理である。ところが、行為の結果を事前には完全に予測し得ないので、その結果責任を行為者に全面的に課すことについては、公正公平ではない事態も想定される。
そこで、現実の人間社会では、悪意や過失の不存在を代表例に、合理的な理由によって行為の正当性を証明できるときは、その限りにおいて、結果について免責とする制度が広範に導入されているわけである。説明責任は、この行為の合理性や正当性を説明する義務のことであって、行為者は、この義務を果たせないときに結果責任を負うのである。
ところが、企業経営においても、政治においても、いや、人間が生きるということ自体において、結果を合理的に予測し得ない状況のなかで、即ち、行為を正当化する合理的根拠がないなかで、行為の意思決定をしなければならないときがあるのだ。これが決断である。決断は、定義により、合理的根拠を超える。
企業経営や政治において、指導者の仕事は、このような意味での決断にある。経験則から知られる合理性や蓋然性に基づく意思決定は、現場の判断であって、指導層まで上がることはあり得ないからである。過去からの連続性に基づいては判断できないことについて決断することこそ、指導者の最も重要な役割なのである。
過去の連続を越えることを革新というのならば、革新こそが指導者の役割といわざるを得ない。革新は、過去の外挿の上にはないから、革新は常に決断でなければならない。革新が問題となるとき、説明責任など果たし得ないことは、説明責任の定義により自明である。
では、決断において、結果責任を果たし得るのか。それは無意味な問いである。決断においては、また、革新においては、指導者に対して、支持を表明するのか、不支持を表明するのか、どちらかしかない。逆に、指導者の責任として、支持を求める説得をしなくてはならない。説得責任である。定義により、その説得は、合理的説明を超えて、情熱やロマン性を帯びるであろう、特に政治においては。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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