近代日本は中国にモデルを提供し援助もしてきた

八幡 和郎

近代の日中関係は、1971年の日清修好条規で日本と清朝が「対等の関係」と認め合ってスタートしたことはすでに「中国が日本を朝鮮のような従属国と考えた歴史はない」で書いた通りだ。

ただ、日清間には朝鮮や沖縄など中国と特殊な関係を持つ国の扱いで調整すべき問題があったが、国際法の原則をよりよく研究し、実践した日本に軍配が上がった。

島津氏の支配下にありながら清から冊封を受けていた沖縄は日本に完全併合され、朝鮮も日清戦争の結果、いったん完全な独立国である大韓帝国となった(日本は大韓帝国が日本の友好国であり明治維新を見習った改革を行うことを望んだが、大韓帝国皇帝の高宗は専制国家であるロシアに接近して日本の安全を脅かしたので、ほかに解決策もなくなり日韓併合という苦渋の決断をした)。

日清戦争後、清朝では「日本に見習おう」という運動が起こり、光緒帝は伊藤博文を顧問として招聘しようとしたが、西太后の抵抗で実現しなかった。だが、日本に中国人留学生が押し寄せ、西洋の文献は日本語訳から中国語に訳された。

このため、現代中国語には驚くほど日本語からの外来語が入っている。「革命」など本来とはまったく意味が違うものもあれば、「民主主義」のような新語もあった。「白話」と言われる口語文の確立にあっても、日本に留学していた魯迅などを通じて日本語の影響が強かった。

頭山満(Wikipedia)

清朝は保守派が日本流の改革に躊躇しているうちに、頭山満など日本人に支援された孫文らが辛亥革命を起こして倒された。

しかし、清朝高官だった袁世凱と組んだ中華民国は、漢民族が他民族を抑圧する国となり、「反日」をナショナリズムの原動力とするようになった。漢人のために満州人の支配から解放し民族自決の国を期待した日本人の善意は踏みにじられた。

その後、日本が国粋主義に傾斜するなかで、中国は巧みに欧米への接近に成功し、日本が中国との外交戦争で負けて中国とアメリカが組んだのが、太平洋戦争である。

とはいっても、中華民国は戦勝国になったものの、国造りをおろそかにしたツケで中国共産党に内戦で負けた。共産党は戦争中に国民党と日本を戦わせておいて漁夫の利を得たのである。

戦後の日本は、米国と同盟を組んで経済建設に邁進し、世界の経済大国にのし上がった。一方、日米に対抗した新中国は大躍進や文革など惨めな混乱を続けた。

中国と日本がわかる最強の中国史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2018-09-04