10月24日に召集された臨時国会では、安倍総理の進める外国人労働者の受け入れが移民の増加つながるとして、野党だけではなく保守派からも反対意見が出ているという。
フランスなど欧米諸国において、移民と現地社会の対立が激化したり、日本においても事実上の外国人労働者である技能実習生が犯罪に関わったりしているのを見て、保守派は移民が増加することが日本社会の混乱、ひいては日本の治安の良さや道徳の喪失につながると危惧して反対しているのだろう。
しかし、「日本には外国人が少ない」というのは、正確な日本の姿とは言えない。ここで「伝統」を重んじる保守派の皆さんに目を向けていただきたいのは我が国の古代史だ。
かつて、大和朝廷が支配していた頃、西日本から関東までしか支配できていなかった。東北から北海道に住んでいたのは蝦夷(えみし)と呼ばれ、血筋は日本人だが大和朝廷には従わず、乱暴の限りを尽くしていた。ヤマトタケル伝説をはじめ、大和朝廷の時代から蝦夷と何百年も争い続けたのである。
それでも、とうとう蝦夷は日本の下に集った。歴史学者・今泉孝雄氏の「古代国家の地方支配と東北」(吉川弘文館)によれば、蝦夷が日本社会に吸収されたのは、武力制圧によるものではなかった。
7世紀の飛鳥時代中期には、朝廷の水軍を率いた阿倍比羅夫の遠征をはじめとして、日本は蝦夷との戦争に明け暮れ、一時的な軍事的な勝利は結局は平和をもたらすものではないことをさとった。そのため、饗応(おもてなし)で懐柔する作戦に切り替え、蝦夷を日本列島中に分散して移住させ、あるいは貴族に引き立てることによって武力衝突は下火させた。
それでも780年には蝦夷の指導者、伊治砦麻呂が蜂起するなど東北地方の混乱は度々発生。朝廷は、その都度討伐を行った。しまいには饗応の負担を捻出する在地社会の反発を招いて反乱まで起きたが、反乱は徐々に下火になっていった。
日本らしさが生まれたのは武士、女流作家、ひらがなが生まれた平安時代であろう。「伝統」を重視する保守派であれば、移民を受け入れを論じる際に、平安時代以前の日本の国の成り立ちの経緯を改めて振り返ることも一考に値すると感じてもらえるのではないか。
確かに現下の国際社会では、EUをはじめ移民を巡るトラブルは絶えない。日本も中世以降は長らくは、アイヌや琉球などを除き、ほぼ単一民族社会を形成してきたが、我が国の古代には異文化と向き合ってきた経験が確かにある。外国人受け入れを拡大していくことは簡単ではないが、日本の伝統は決して異端を排除するものではないはずで、多様な社会を作る努力こそ真に伝統を大切にすることだと思う。
宇都宮 隆法
1975年生まれ。千葉県内の病院に勤務する内科医。宇宙誕生から現代まで、あらゆる歴史の本を読み、特に古