『現代ビジネス』さんに「日本の憲法学は本当に大丈夫か?韓国・徴用工判決から見えてきたこと」という拙稿を掲載していただいた。
日本国内では韓国大法院の判断に批判的な論調が大半だが、日ごろから日本政府に批判的な弁護士や学者の方々は、日韓請求権協定を見直すべきだ、と主張する。一貫性を保つためには、仕方がないのだろう。
今回の事件は、日本の憲法学で通説であり、日本の法曹界では絶対的真理のように信じられている「憲法優位説」について考え直してみるのに、いい機会だ。
『現代ビジネス』拙稿では芦部信喜・元東大法学部教授を引用したが、ここでは樋口陽一・元東大法学部教授を引用してみたい。樋口教授は、憲法と条約の関係について、次のように述べた。
「A説は、憲法の国際協調主義的側面をより強調して、「主権」を国際的制約をかぶったものとして理解し、憲法と条約の形式的効力関係につき、条約優位説をとるにいたる。B説は、「主権の維持」の側面を強調し、憲法と条約の関係について憲法優位説をとる。C説は、さらにすすんで、「主権」の標識として形式上の自己決定の保障だけでなく、実質的な独立性までを要求し、日米安全保障条約のもとで日本国の「主権」が侵されている、と考える。A説の背景には、つきつめていくと、国際法すなわち西洋「文明」社会の法が、「野蛮」な国内法に対して「文明のための干渉」をすることはゆるされる、とする西欧的国際法観がある。それに対し、C説の背景には、国際法すなわち「帝国主義」の支配が、「民族自決」に基づく国内法を侵すことはゆるされない、とする第三世界的な国際法観がある。B説は、その中間に位置する。」(樋口陽一執筆部分『注釈日本国憲法』[1984年]45頁。)
樋口によれば、憲法と条約の関係の理解には、三つのパターンしかない。一つは、「西洋文明」を支持し、「野蛮な国内法」を否定し、「文明のための干渉」をする、「西欧的国際法観」の立場だという。もう一つは、「民族自決」を標榜し、「帝国主義」の産物である日米安全保障条約を否定し、「実質的な独立性」を要求する立場である。両者の「中間に位置する」のが、「憲法優位説」なのだという。
言うまでもなく、「憲法優位説」以外の二つの説には、あまりに悲惨な描写しか施されていない。こんな嫌味な描写を見てからもなお、「僕は西欧的国際法観を支持します!」とか「僕は帝国主義たる日米安保条約を否定します!」と叫ぶ者は、それほど多くはないだろう。
もっとも、憲法学のムラ社会の中では、日米安保を否定するかどうかは、学会を二分する大きな踏み絵だったのかもしれない。まして国際社会について語るような連中は、国際法の一方的な優位を唱える異星人のようなものだったのかもしれない。いずれにしても、せまいムラ社会の話だ。
もっとも、司法試験受験を志していれば、ムラ社会の動向にも気を使わなければならない。「憲法優位説」が「中間に位置する」説だと聞けば、なおさら安心して、日本の憲法学会の通説を支持することを誓うのだろう。
だが「憲法優位説」が、「中間に位置する」という説明は、本当に説得力のある議論だろうか。結局、国内法と国際法の関係について、前者の優位を一方的に主張するという点で、全く「中間に位置する」ものだとは言えない立場なのではないだろうか?
樋口教授の見え見えの操作的レトリックに騙されず、冷静に考えてみよう。本当に対立関係にあるのは、国際法優位の説と、国内法優位の説だ。とすれば、憲法優位説が「中間に位置する」ものだとは、認めがたい。両者の二元論的な有効性を認める「等位理論」=「調整理論」こそが、本当に「中間に位置する」立場だ。
日本人にとって今回の韓国大法院の事件は、国際法の重要性を思い出す、いい機会になった。一方的に「憲法優位説」を唱えることの危険性と、「中間に位置する」立場から「調整」をすることの重要性を思い出す、いい機会になった。
憲法9条をめぐるイデオロギー闘争も、こうした事情と無関係ではない。本来、前文にしたがった解釈を施し、国際法との調和を前提にした解釈を施していれば、憲法9条は、争いの種になるようなものではなかった。
憲法優位説は、「中間に位置する」ものではない。憲法学会通説は、「中間に位置する」ものではない。
国際法を尊重し、憲法と国際法の調和を前提にする立場こそが、「中間に位置する」ものだ。国際法も、「ほんとうの憲法」も、そうした「中間に位置する」ものだ。中間に位置していないのは、憲法学通説である。
編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年11月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。