百田尚樹「日本国紀」の弱点のひとつは、近現代以前の外交史への関心の稀薄さだろう。著者もあまり興味がないのか、監修者にもそちらの方面の専門家がいなかったのかもしれない。
そのあたりは、私の日本通史などが「日本と世界がわかる 最強の日本史」(扶桑社)というタイトルも含めて、世界とのつながりを強く意識しながら書いているのと立場が大きく違っている。(「世界と日本がわかる 最強の世界史」「中国と日本がわかる最強の中国史 」「韓国と日本がわかる最強の韓国史」とセットで書いている)
そこで、中国、韓国との関係にどんなようにかいているかを私の本とも比較しながらみていこう。
まず、縄文人と弥生人の起源や日本人のDNAにおける比重などについては、ほとんどなにも書かれていない。
私は日本語は縄文人の言葉だが、本格的な水田耕作技術をもって中国の江南地方から朝鮮沿岸を通ってやってきた弥生人が日本人の主たる先祖だという立場だ。
倭の五王の中国への遣使について、私はそれが現在の日本が継承している外交関係の始まりとしているが(邪馬台国九州説は共通)、百田氏はあまり評価せずに九州王朝説にも理解を示している(そうなると、四世紀の統一国家の成立も曖昧になってしまうのだが)。
任那について、その存在は認めているが、あまり重視してない。一方、半島での前方後円墳の存在を理由に百済を日本の植民地のようなものとしている。しかし、前方後円墳は馬韓南部で、日本から百済に六世紀になって譲渡された任那四県におけるものであって、百済とは関係ないのではないか。百済は日本に従っていたが植民地というようなものだというのは無理がある。
遣隋使、遣唐使の時代については、百済・高句麗・新羅は中国の冊封国だが日本は違うことが強調される。しかし、冊封体制というのは、戦後日本で自虐史観の学者が発明したものであることを拙著で明らかにしている。百済や高句麗が唐などと結んでいた緩やかな朝貢関係と、新羅以来、半島国家が中国に本格的に従属国化してのちの冊封関係が区別されていない。このあたりは、二者択一でなく、程度の問題だし、呉越同舟もあれば、時代によっても違うということを拙著で指摘した。
大陸文明の伝播についての半島の関与については、古代はあいまい、遣唐使は半島経由でないので関係なしとするが、古代について曖昧などと言うことはなく、「半島在住の漢族」が主役だったことは明らかだし、日中間の交通路は基本的に半島「沿岸」経由が基本で、直行になったのは遣唐使の中期以降である。このあたりについては、拙著ではとくに力を入れて論じている。
遣唐使の派遣中止や平安文化の性質についても、さらっとしか書いてない。平安初期がもっとも唐の文化が濃厚に採り入れられた時代であることは最澄・空海を見ても明らかだが、スルーしている。
南宋との交流もほとんど書かれていないし、明との経済文化の交流もほとんど書かれていない。元寇については、高麗が大きな役割を果たして、元・高麗寇と呼ぶべきだというのが私の主張だが、百田氏は高麗も参加していたという程度の触れているだけだ。ここは日韓関係の歴史の中ではっきりしておかねばならないところのはずだ。明と幕府の関係もいちおう書いているが、あまり突っ込んでない。
秀吉の朝鮮遠征がそれほどの無茶でもなかったとか敗北とはいえないといった点では、私が拙著で展開してきた考え方とだいたい同じラインである。鎖国の評価もだいたい正しい。ただ、キリスト教の禁止や鎖国について世界的な国際情勢との関連ではあまり突っ込んでいない。また、沖縄についての記述が非常に少ないが、ここは現代的視点では大事なところでないのか。