「打撃の神様」と言われた川上哲治さん(1920年-2013年)は、「勝負に強いか弱いかは、執念の差である」という言葉を残されているようです。之は、最後の最後まで諦めず最大限の力を振り絞り立ち向かって行く姿勢が結局、物事を成し遂げたり勝負に勝つことに繋がって行くといったことでしょう。
私は嘗てのブログ『為せば成る 為さねば成らぬ』(16年1月29日)の中で、「勝ちきる人たち」には次の2点、「自分が掲げた目標に向かって様々なものを犠牲にしながら唯ひたすらに突き進んで行くということ」、及び「例外なく運にも非常に恵まれるということ」があるのではないかと述べました。
此の運を呼び寄せるものとして、私は「努力」「誠実さ」「粘り」の3つが取り分け重要だと考えています。最後の最後に一頑張り・一粘り出来るか否かで、運を呼び寄せ勝利できるかどうかが決するケースは結構あります。そういう意味で勝負強い人とは一つに、何事も簡単に諦めない粘りある人を言うのだろうと思います。
但し「勝負に強いか弱いかは、執念の差である」とは、ある程度実力を持った人にのみ通ずる話でしょう。実力のない人が戦いに挑んで負けるまで執念だけでやり抜く、というのは如何なものかと思います。従って昔から言われるように「人事を尽くす」、その結果として勝負に挑むといったことでなくてはなりません。
あるいは『孫子』に「夫れ未だ戦はずして廟算するに勝つ者は、算を得ること多きなり」とありますが、戦の勝敗は廟(びょう:祖先・先人の霊を祭る建物)で作戦会議を行う時に既に決しています。「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」ですから、十分な勝算ある勝負か否かをきちっと考えなければなりません。
更に言うと「勝負は時の運」であって、その中で臨機応変に方向転換もして行くべきで「状況が変われば、それに応じて変われば良い」と思います。『易経』にあるように、「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず」です。過去に執着するのではなく、誤りを認識したその時直ぐに代替案に移行できる等、フレキシブルに対処して行けるよう常時あらねばなりません。
以上、努力の限りを尽くしているか、相手に勝てる見込みは十分か、形勢変化に対する柔軟性を維持しているか――こうした事柄が、勝負における執念や粘りの価値を考える上での大前提だと思います。
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