憲法9条の改正が「リベラル」を取り戻す --- 高山 貴男

寄稿

「日本型リベラル」とは何者なのか。

第2次倍政権が成立してから6年あまりになろうとしている。安倍政権ではいわゆる「アベノミクス」が注目されたが現在ではあまり取り上げられていない印象がある。

一方で憲法や安全保障政策の議論は現在に至るまで積極的になされている。その文脈で「保守」「リベラル」を巡る議論が活発になった。安倍首相が「保守」政治家であることは明白であり、実際に安倍政権下で成立した特定秘密保護法や安保法制などは「リベラル」なら決して実施しない政策である。

2015年の安保法制反対デモが左派による「野党共闘」の契機に(旧民主党公式サイトアーカイブより:編集部)

また昨年、立憲民主党が結党されたことを契機に「保守」「リベラル」論争は更に活発化したといえる。

日本のリベラルは欧米のそれと異なることから「ガラパゴス」(1)とか「偽リベラル」(2)とか否定的に評価されることが多い。筆者としては日本特有の現象だからシンプルに「日本型リベラル」と呼びたい。

さて、日本型リベラルの最大の特徴は何か。それは「リベラルな社会」を創造する能力がないことである。
彼(女)らは「批判のための批判」を正当化し議論を破壊する。「批判のための批判」は根拠薄弱もしくは皆無なのだから説得が困難ないし不可能であり合意形成に至らない。

だから「批判のための批判」は「議事妨害」に過ぎないのだが日本型リベラルはそれを認めずむしろ積極的に肯定する。
日本型リベラルの批判の基準は日本国憲法に対する態度であり、彼(女)らは日本国憲法を聖典化し、それを守ることで自己正当化を図っている。

こうした日本型リベラルの態度で窺がえるのは「対決」志向が極めて強いことである。
彼(女)らは物事を「弱者/強者」「被害者/加害者」の対立軸にはめ込み、当然のように両者の「対決」を煽る。日本型リベラルは物事を「解決」ではなく「対決」させる方向に導く。

従軍慰安婦問題や徴用工問題、沖縄基地問題もこの文脈にある。

こうした日本型リベラルの「対決」思考は彼(女)らの野党思考から来るものである。
戦後日本にとって「野党」とは与党を目指すのはなく与党の存在を前提にした固定化された存在だった。この「固定化された野党」こそ日本型リベラルの思考を考えるうえで最も重要である。

55年体制という「劇」

日本型リベラルの前身である戦後の「革新」勢力は原則として野党であり、与党になったのは例外である。旧日本社会党が国政選挙の立候補者数を抑制し政権与党になることを自ら断念したことはよく知られている。そしてこれが結果として自民党の長期政権を保障した。いわゆる「55年体制」である。

革新勢力は「万年野党」を自主選択し「与党のお目付け役」とか「ストッパー」と称し自己正当化を図った。この文脈から「批判のための批判」も正当化された。

55年体制下の万年野党が最も関心を示したのは憲法・安全保障の分野である。
憲法改正、特に憲法9条の改正は日本を再び戦争へ導く、そしてそれは「弱者」に著しい打撃を与え日本人を「被害者」にしかねない。雑駁であるがこれが革新勢力の基本的主張であった。

もちろん憲法9条を守ることが平和に繋がるとは限らない。もしかしたら憲法9条を守らない方が平和に繋がるかもしれない。「憲法9条を守る=平和を守る」ではない。

55年体制下で憲法や安全保障について理性的な議論がなされていたとはとても思えないが、それでも革新勢力は一定の支持を受け国会の内外で小さくない勢力を誇った。

今は振り返ると「国防の障害」に過ぎなかったが、現在の立ち位置から過去の革新勢力を批判することはとてもできない。
なぜなら彼(女)らの多くが「戦争体験者」であり「理性」より「感情」が優先したのはある意味、当然だった。昭和の時代まで「戦争体験者」は政界はもちろん社会の各層の中枢に居て存在感があった。

「焦土」を体験した人間が「弱者」「被害者」に敏感なことをある意味、当然だろう。
鈍感な方が問題である。55年体制は戦争体験者の存在を前提とした政治体制だった。
55年体制を高度な「劇」とするならば、その「演者」は戦争体験者だった。
そしてその演者はもはや政治・社会の中枢にはいない。現在の与野党の代表者全員が「戦後生まれ」である。

日本型リベラルは誰も救えない

現在の日本型リベラルが55年体制思考で行動しているのは間違いない。「戦後生まれ」がほとんどを占める彼(女)らに55年体制という高度な「劇」を演ずることはできない。分不相応の演者が無理して演じようとしているだけである。それに歓声と拍手を送る観客(=日本国民)はどれだけいるだろうか。「劇」を間近で見た高齢者が懐古的に送っているだけではないか。

むしろ55年体制という高度な「劇」を維持したいがために分不相応な演者達は注目集めるために55年体制下よりも深く「弱者」「被害者」に寄生して対立を煽っているというのが実情ではないか。

一般的に「弱者」「被害者」はリベラルを欲するものだが日本ではこの関係は逆である。日本型リベラルが「弱者」「被害者」を欲するのである。彼(女)らにとって「弱者」「被害者」は自己正当化のための消耗材に過ぎない。

日本型リベラルの本質は社会の寄生者であり何も生み出せない。何も建設できない。リベラルな社会を創造できない。流行りの言葉を使えばまさに「生産性がない」存在である。

寄生者(=日本型リベラル)は原理的に宿主(=日本)を成長させることができない。それどころか衰退を加速させる存在である日本型リベラルは誰も救えない。救われるのは彼(女)らだけである。

憲法9条の改正が「リベラル」を取り戻す

日本型リベラルを論じて思うのはもはや「戦後」は終わったということだ。昭和天皇の崩御とともに「戦後」を終わったのだ。雑駁に言えば昭和で「戦後」は終わり、平成は「戦後」が築き上げた財産は取り崩してきた時代といえる。天文学的な財政赤字など「戦後」の貯蓄があってこそである。

問題は「戦後」に固執し55年体制という再演不可能な「劇」の復活を目指す日本型リベラルである。彼(女)らは日本国憲法を聖典化し、特に憲法9条2項を絶対的なものと位置付けている。憲法9条2項が日本型リベラルの「思想的核」であることは明らかである。

だから憲法9条2項を削除すれば日本型リベラルはたちどころに解体するだろう。
おそらく現在の野党も成立しなくなる。

憲法9条の改正の議論は「すべての自衛隊員が強い誇りをもって任務をまっとうできる環境を整える」(3)といったものではなく、この文脈で議論されるべきである。

憲法9条2項が削除されれば「戦後」は時間軸を表す以上の意味を持たなくなり、政治・経済論議には出て来なくなる。
憲法9条の改正によって我々日本人は「戦後」から解放され、その時から本当の意味での「リベラル」な議論ができる。
憲法9条の改正(=9条2項削除)がリベラルな社会を創造する第一歩であり、憲法9条の改正が「リベラル」を取り戻すのである。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

注釈
(1) 岩田温「『リベラル』という病」 58頁 彩図社 2018年
岩田氏は日本のリベラルを「他の世界のリベラルとは異なる独自の退化を続けた。まるでガラパゴス諸島に生息する生物たちが独自の進化を遂げたように。」と評している。

(2) 八幡和郎「『立憲民主党』『朝日新聞』という名の『偽リベラル』」
タイトルより引用 ワニブックス 2018年

(3) 朝日新聞 2018年10月15日