先日、韓国を縦断するツアーに参加して釜山から始まって、新羅と百済の遺跡などを訪ね歩いたときのお話しである。
釜山に午後、到着して、まずロッテ・ホテルのカジノへ。小規模なカジノだが、アジアのカジノに行ったことはなかったので、そういう意味では興味深かった。これは外国人専用らしい。日本人も多く、韓国のためにお金を落としている。そういう韓国やマカオの外貨収入減につながることに反対したい勢力がいわゆるカジノ法案反対の裏にいるのはいうまでもない。
龍頭山公園はかつて対馬藩の倭館があったところ。明治初年の数々の日朝交渉の場となったところでもある。ここでの、朝鮮の無礼きわまりない対応が不幸な近代日朝関係の原点だ。現在は、釜山タワーがそびえるが、その足下に李舜臣の巨大な銅像がそびえる。ガイドは李舜臣の日本海海戦なみの大勝利を誇るが、それほどでもなかったし、自身も戦死したことはよく知られたとおり。
韓国最大級の海産市場である「チャガルチ市場」は、アメ横か錦市場のように商店が並び、何十軒も簡易レストランが並ぶ建物がある。新鮮な海産物を焼いたり、刺身にしたりして提供していてコリアン・パワー全開でとても楽しそうだし、海鮮料理もうまい。
翌日は、済州島の名物らしいアワビ粥を提供するレストランで朝食。粥といってもアワビの肝の緑色をしている。
ついで、新羅の都だった慶州へ。石窟庵はバスを降りてなお山道を行く。花崗岩の如来像(なに如来かは不明だそうだ)は痛みが激しいのでガラス越しでしか見られず、ドームのなかには入れず、全体的な雰囲気はつかめない。
仏国寺は見事な伽藍だが、ほとんど廃寺となっていたのを朝鮮総督府が再建したものだが、そんなことはガイドは説明しない。
宮殿跡はなにも残っていないが、近くの古墳群が残る。この慶州の建都についても日本人が主たる役割を果たしていると「三国史記」に書いてあるが、そんなことガイドも知らないのだろう。
青磁の工房と紫水晶の店に立ち寄る。水晶は台湾旅行でも定番。つけてるとイオンで身体にいいそうだ。その手の話に私は興味なし。
昼食は山菜定食なるもの。翌日の扶余のグドレサンバブとかいうのもそうだが、野菜やハーブでご飯を韓国料理のおかずと一緒に巻く。だいたい4人が1組で、テーブルの真ん中に各種キムチ、塩辛、小魚、山菜料理、野菜のおひたしのようなものなどが並べられ食べ放題。取り箸はなく、使い回しすることもあるようだ。
午後は、雪の中を伽耶山海印寺へ。名高い八万本の木版経典である八万大蔵経が納められた世界遺産。名前の示す通り日本領任那の故地だが、そんなことは紹介されない。収蔵庫の中には入れないが、隙間から少し見ることができる。大きな寺だがあまり僧侶の姿が見えない。
ここまでは慶尚北道だが、全羅北道に入って、馬耳山へ。馬の耳の形をした奇岩。
泊まりは全州。李王朝の国王家は全州から出て満州との境界の咸鏡道方面で勢力をもち、明に対して独自性を追求しようとした高麗を倒した親中派。親日は犯罪だが親中はそうでないのはよく分からない。
ここでの食事はいうまでもなく本場のビビンバ。石焼きはソウルのもので本場は違うと強調される。
古いホテルでオンドルだが快適。
翌日は全州の「全州韓屋村(殿洞聖堂、慶基殿、伝統韓紙院)」。昔の韓国の建物を集めたり再現したりしているそうだが、みんな瓦屋根。李氏朝鮮時代の写真とだいぶ違うような気も。ロマネスク様式の殿洞聖堂はカトリックの教会で1908年に設計して1936年に完成とか。1936年といえば日帝統治のもとでの朝鮮の発展の象徴的な建物かと思うが、ガイドさんは一生懸命、1908年の設計の方を強調して日帝時代の遺産であることには触れられたくない様子。1908年でも統監時代で、日本の指導の下で経済建設が軌道に乗り始めた時代だ。
次は忠清南道に入って、扶余で五層石塔が残る「定林寺址」、百済最後の都「扶蘇山城」にある三忠烈祠。百済が唐と新羅に滅ぼされたときに抵抗した英雄らしい。もともと扶余神宮の建設が進んでいたが中止して戦後に建てたらしい。
白馬河で古代の軍船みたいな遊覧船に乗って扶余落城のときに宮女三千人が身を躍らせたのが花が散るようだったという洛花岩を見上げる。騒々しい哀歌がスピーカーから流れる。百済を滅ぼしたのは唐で新羅は助勢しただけで、百済は唐に併合されたのだが、そんなことはおくびにもださず。
百済の時代に韓国から日本に文化が伝えられたことが強調されるが、百済が韓国と連続性があるとはいえないし、文化を伝えたのはすべて百済在住とか経由の漢族だが、もちろん、そんなことは言わない。
続いて、公州へ移って石積みの城郭「公山城」をみる。公州はもとおもと熊津といって、任那の一部だったが、ソウル付近の都を高句麗に落とされて領土を失った百済のために雄略天皇が下賜したと日本書紀にあるところだ。この郊外には桓武天皇の先祖でもある武寧王の有名な墓がある。ほかの墓は日帝に略奪されたが、ここだけは無事だったとかいってるが、武寧王墳を上回る立派な墓が1910年にあったとは聞かない。
それから、バスの中でガイドさんは、旅行とは関係ない反日歴史観や現在の政治についての文在寅政権擁護の演説を大音響のスピーカーで延々と続ける。
元の侵攻にいかに高麗が勇敢に立ち向かったか(嘘でしょう)、「日本にも元は攻めていったとき高麗も一緒だったが海軍が必要だったからちょっと連れて行っただけ(フビライに日本を攻めろとけしかけたのは高麗の忠烈王だが)」と弁解。
朴正煕大統領の経済発展は西ドイツに炭鉱夫や看護婦さん派遣したりしたり(なんかほかの職種もあるはず)、外国からお金借りたりして(日本からもらったり借りたりしたのを知らないのだろうか)実現したそうだ。
さらにガイドが言うには、「文在寅大統領の支持率は70%です、55%とかいう数字もあるけど、そんなはずはなく、国民はみんな北朝鮮との融和を支持している」のだそうだ。最新の世論調査では、もう50%を切っているのだが。
というわけで、韓国人がどんな歴史観を教えられているか分かって、たいへん、有意義な旅行であった。
ガイドさんは、とても優秀で親切だし、別に特殊な人でなく、韓国人のその年代のそこそこのインテリの平均的な考え方を代表してるのだろう。
ただ、日本から来た観光団に社交的配慮もなにもない。日韓関係が悪いのは、全部、日本のせいだといわないと気が済まない。「徴用工判決で日本では騒いでいるようだが、騒いでいるのは日本だけ。こっちは何にも思ってないから、観光に来ても大丈夫」といわれても困るのである。
このあたり、中国へこのたぐいのグループで旅行すると、中国人のガイドからは少なくとも日中友好になんとかもっていきたいという気持ちが伝わってくるのと大違いだ。しかし、奇妙なのは、そういう謝罪強要チックな話を聞いても日本人が「知らなかった」「やっぱり日本はひどいことしたのか」という感じになることだ。
このあたりは、日本人が日本国家の立場からいうと、こういうことだったというしっかりした歴史教育を受けてないからだ。
もちろん、相手国のいうことも聞くべきだし理解するべきだが、まず、日本の立場はどうなのかということは、国家という共同体に属する者として第一に踏まえるべきことだ。
とくに、中国や韓国のような非常に一方的な見方の歴史観をもっている国と対峙している以上は、それは絶対に必要なことだ。
いわゆる近隣国条項は、まず、近現代史についてのものだから古代史や中世史、近世史とは関係ない。また、相手国に配慮することは、彼らの言い分も教えればいいだけであって、日本の立場について教えないことを意味しないはずだ。
日本人がしっかりした日本人としての歴史観をもたないままだと、韓国に旅行に行って彼らの言い分だけ聞いて帰ってくるのは困ったことになってしまうし、とくに修学旅行などで韓国や中国に行く場合には、よほどしっかり事前に日本人としての歴史を教えてからにすべきと言うことにならざるを得ない。