文化の違い:人生の半分近く海外にいても気付かないことも

最近、今更ながら世界との文化の違いを感じさせることがありました。

私が東京で運営する共同住宅の一つの隣地の方からある日、「お宅の住民の方がうちのごみ箱にごみを捨てている」とクレームがありました。思い当たるベルギー人のテナントさんがいたのでその方に再度、ゴミ捨て場を説明したところ、すみません、次回からはちゃんとやりますと。

それからしばらくしてたまたまお会いしたところ、「ちゃんとごみを捨てたと思ったら管理人らしき人にこっぴどく怒られた」と訴えるのです。「どこに捨てたの」と聞くとどうやらすぐそばにあるマンションのごみ置き場にごみを置いていたようです。そこでようやく私は気が付きました。外国にはごみを電信柱の下に置く習慣はなく、ゴミ箱を必死に探したのですね。つまり、ごみの回収車が決められた曜日の朝に回ってくるからその時間までに指定された路上にゴミ袋を置いておくという発想は外国人には全くないことにようやく気が付いたのです。

私のように海外に人生の半分近くいる者でも案外気が付かないことは多いものです。それは生活習慣については自分なりにすでに理解しており、使い分けもできることもあるのでしょう。

カナダに来たばかりの頃、自分の庭の手入れが悪いと隣家から怒られる、という意味が分からなかったのですが、そんなことは住宅街における基本中の基本のマナーだということはすぐに学びました。日本なら「俺の家のことに何、口出ししやがって」というところでしょう。こちらでは違うのです。そんな小さな学びをずっとし続けるとふるまいはこちらの人とまったく同じ水準になれるものです。

その振る舞いや行動は日本のそれとは明らかに違うことも多いので日本に向かう時には成田や羽田についたとたんに日本モードに切り替えるよう努力しています。特に気を付けているのがしゃべり方。声のボリュームを落とし、あまり自己主張せず、押し付けず、語尾を断言調にしないなどの工夫をしています。

それが日本のコミュニティの中で「目立たず適度に埋もれながらもうまくやっていく」方法であるからであります。あの人は変わっている、やっぱり外国に住んでいると違う、と思われて日本でビジネスがうまく進まないことが間々ありました。だからこそ、イメージ戦略をより大事にしています。

カナダにいれば逆に色濃く出さないと存在価値が埋もれてしまい、日常茶飯事の様々な交渉に勝ち抜けなくなります。懐柔したり、プレッシャーをかけたり、ディールしたりとあの手この手でやり取りするしかないのです。

アメリカに行くとこれまた違ってきます。結構、人間対人間の関係構築は双方のコミュニケーションからという感じもあり、目と目を合わせ、ガチンコでトークしたりすると案外、トランプ大統領のように「お前はいい奴だ」と思われたりします。

ではカナダとアメリカはどうでしょうか?訴訟が大好きなアメリカ人もカナダではそう簡単に「訴えるぞ」とは言えません。何故ならカナダの訴訟で「完勝」することはほぼなく、手間暇も大いにかかるからであります。

先日、昔の事業の関係で最高裁まで行っていた6年越しの裁判で和解成立をしました。もともとは当方は被告ではなかったのですが、ディスカバリー(事実関係の確認)のプロセスで新事実が次々と明らかになり、原告と被告が増え、双方、入り乱れ、誰が何だかわからないほど複雑になってしまいました。その中で当方は一応、被告側になり、総額数億円規模のクレームを受けていました。これもアメリカに長くお住まいだった方からの訴訟でした。和解の結果、原告はクレーム総額の10分の1ぐらいしか取れず、当社の負担はそのまた10分の1ぐらいで収まりました。

好む好まざるにかかわらず、日本在住の方も外国人と隣り合わせの生活が当たり前になってきました。外国人が日本の文化伝統習慣をどこまで理解しているかはなはだ疑問です。が、私の知る限り、多くの外国人も「郷に入れば郷に従え」の精神は持っており、どうにか日本のやり方を理解しようと努力していることは事実です。

そんな外国人もカルチャーギャップで汗をかいているかもしれませせん。我々は教えてあげるという気持ちを持つことが大切ではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2018年12月23日の記事より転載させていただきました。