1歳半の娘がいる。子育てでこだわっていることは、数々の「機会」を用意して、興味を持ってもらうこと。毎週必ず最低半日はお出かけしているのもそんな理由から。妻に休んでもらうというのも理由の一つ。今週末は熱海に行った。人生初の新幹線を大変に楽しんでいた。
やや危険ではあるのだけど…。娘とお出かけする時は一人で歩かせる機会をつくっている。自分の足で立って、興味関心のある方に進んでもらう。もちろん、すぐ後ろで見守っているのだけど。自分で自分を支えられる人間になって欲しいと思っている。
さて、成人式だ。大学教員の生活にすっかり慣れたせいなのか(?)、月曜が祝日の日は出勤だと信じ込んでおり。大学にやってきたら、誰もいなかった。出勤途中に成人式に行く若者を見掛けたりはしたが。
「大人とは何だろう?」
毎年、この日に考える。
友人から「最近、大人になったね」と言われる。今年の4月で45歳なのだが。
言動が大人になったと。相変わらず金髪に近い茶髪で(今はシルバー、アッシュを入れている)、17歳の時以来のライダースジャケットを購入したばかりなのに。
大人というものは、制度、法律によるものだけではない。社会や会社、家庭など枠組みにより異なるし。見た目や健康状態も関係する。
毎年、この日に激しく傍観してしまうのは、新聞の「成人式社説」である。これは、わかりやすい茶番だ。
ただでさえ、「若者の新聞離れ」が叫ばれる中、社説で成人式を論じ、若者へのエールを送ったり説教をしたところで、届くはずがない。中高年の論説委員などが、自分が若い頃を前提とした笑止千万の妄言を垂れ流したところで、若者にとっては、直接的には何の危険性もなく、無害なものであるはずだ。
新成人の保護者、教育者、さらには企業の幹部などは未だに新聞を読んでいる。ここで間違った若者像と、説教を流布されては間接的に新成人が迷惑する。ましてや、若者が夢や希望を持てるような社会を創ることができなかった責任はなかったことになってしまう。
14日の朝刊をチェックした。全国紙においては、読売、朝日、産経が社説で成人式を取り上げている。毎日、日経は関連したコラムを確認した。ここでは、社説を読み比べてみよう。
読売・産経は簡単にいうと「厳しい世の中だ、若者頑張れ」という内容。一方、朝日新聞は風刺画を元にしつつSNS時代の分断社会を論じるという内容。この読売・産経的な叱咤激励芸と、朝日的な寄り添い芸、成人式に合わせて社会を語る芸も、もはや伝統芸能である。
読売新聞
成人の日 踏み出せば見える景色がある : 読売新聞
産経新聞
【主張】成人の日 未来を創るのはあなただ
朝日新聞
(社説)成人の日に 思考の陰影感じる世界へ:朝日新聞デジタル
毎年のことだが、読売・産経は若者像の提示、いや押し付けているかのようなものになっている。それでも読売は活躍する若者を例にあげて、応援しているかのようにも見える。ただ、この「すごい若者になれ」という押し付けも当事者にとっては迷惑なものではないか。
少子化について触れられているが、それは若者たちに何の罪もない。むしろ、このような日本にしてしまったことを読売・産経がまっとうな保守だったとしたならば、それこそ若者に謝罪まではいかなくても、もっと同情していい案件ではないか。
毎年、この日は奇妙だ。成人式になって突然若者に説教を始めたり、若者を利用して何か言うのではなく、日々、向き合うことが大事なのだ。
成人式に合わせて髪型やカラーを変える教え子が散見された。「荒れる若者」風にいじる人もいるだろう。ただ、彼らも日々、勉強やアルバイト、青春の悩みで大変なわけで。いいじゃない、今日くらい。
大丈夫、どうせ暴れない。
むしろ、このような大人たちの無責任なエールにこそ若者は暴れるべきである。物理的にではなく、マインド的に。
というわけで、若者への応援も説教も結構だが、大人たちは立ち止まって、なぜこんな日本になってしまったのかを真摯に省みよう。敬虔な反省を持とう。若者に夢を託す前に、できることしよう。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年1月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。