多様性の社会は、不満を少し我慢し合うこと。では「子連れ」は?

こんにちは、都議会議員(北区選出)のおときた駿です。

昨日の「子連れ出勤・出席」について述べたブログ記事とTweetに対しては、非常にたくさんのご意見をいただくことができました。

まさに賛否両論といったところであり、「子連れ」という行為がまさに社会の中でどのように位置づけられるかの過渡期にあるのだとまざまざと感じます。

そんなご意見の中で、

「普段から多様性、多様性と言っているのだから、子連れが不快だという価値観も許容して対応するべきだ

というご指摘が複数ありました。

そう、まさに「多様性」の難しさがここにあります。

「多様性ある社会」とは自分が考えるバラ色の環境が整うことではなく、むしろ異論や不快だと思う表現とも共存することであるという点は、以前にもセクシャルマイノリティを語る文脈でブログで取り上げました。

参考過去記事:
真の多様性ある社会とは、「自分と異なる意見・不愉快に思う表現」と共存すること

「多様性先進国」である北欧などでも現在、「多様性の尊重を言うのなら、『移民は嫌だ、排斥せよ』という価値観だって認めよ」という反論やハレーションが発生しており、いまだにその軋轢は解決されているとは言えません。

結局のところ、「どこで線引するか、どちらがどれだけ歩み寄るか」という問題になるわけですが、「子連れ」については比較的わかりやすいと思うので、少し論を進めてみたいと思います。

とある式典において、「多様性を大事にするなら、『子連れは不快だから認めない』という考えを尊重し、それに沿って行動するべきだ」という主張を是とした場合、会場はどのようなことになるでしょうか?

逆に「多様性が大事だから、子連れでくることも認めましょう」という主張が是とされた場合はどうでしょうか?

前者のケース:会場には男性ばかり
後者のケース:会場には男性や女性に加えて、さらに子どもがいる

こうなる可能性が極めて高いと思います。両方の光景を見て、どちらの方が「多様性」があるかと問われれば、多くの方は後者と答えていただけるのではないかと思います。

なので私はやはり、多様性ある社会というのは「子連れに寛容である社会」の方であろうと思います。

その上で、どこまで「子連れ」への対応を許容するかの程度問題は考えなければなりません。

あまりに「子連れ」を神格化しすぎて、泣きわめいても走り回ってもOKとするならば、社会がいわゆる「子連れ様」ばかりになってしまい、多くの場が成立しなくなってしまうことも考えられます。

子連れ側にも、「子どもの声や存在が嫌い」という方々に配慮し、泣いたら速やかに退室するなど一定の配慮が求められる場合もあるでしょう。

こうした「程度の線引」については検討が必要ですし、まさにこれから色々な場面で議論が起こり「こなれて」くるのかなあと思っています。

価値観は人によって異なるものであり、それぞれ否定すべきではないというご意見はその通りです。

私としても街頭活動時やSNSも含めて、対話のチャネルを閉じることはありません。

「多様性のある」「寛容な」社会・環境という難しい理想に、それでも少しでも近づいていけるよう、私自身も引き続き議論と努力を重ねて参ります。

それでは、また明日。


編集部より:この記事は、あたらしい党代表、東京都議会議員、音喜多駿氏(北区選出)のブログ2019年1月23日の記事より転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はおときた駿ブログをご覧ください。