『捏造だらけの韓国史 ? レーダー照射、徴用工判決、慰安婦問題だけじゃない』(ワニブックス)がこの週末から書店に並ぶが、この本を書いていて、しばしば、日韓関係は日本の侵略とかで始まったという誤解があって、日本人もそう思い込まされているのであるが、実は朝鮮王国による非常識に無礼な蛮行から始まっていることがわかる。
明治維新になって新政府は、1868年12月に、新政権樹立の通告と江戸幕府が対馬の宗氏経由で行っていた外交に代えて「条約に基礎づけられた近代的な国際関係」を樹立することを求める国書を持つ使者を送った。江戸時代には、朝鮮王国が徳川将軍の代替わりごとに祝賀使節を派遣するという、ゆるやかだが朝貢チックな行為をする不平等なものだった。それを対等の関係にしようというのだから、おおらかで前向きのものだった。
ところが、大院君は日本が西洋化を進めていることを非難し、中国の皇帝のみが使える「皇」とか「勅」の文字が国書に使われているのが許せないとして、国書の受け取りを拒否した。これを「書契問題」という。
そののち、釜山を舞台に、外出を禁じられていた日本外交官が倭館を出て東莱府という役所に押しかけたとか、倭館を外務省が対馬藩から移管したのに対して朝鮮側が嫌がらせをした事件などがあった。
そして、日本の外交官が蒸気船に乗って洋服で釜山に来たことが気にくわないとして報復措置を講じた事件をきっかけに日本では征韓論が高まり、とりあえず、西郷隆盛が自ら使節となって朝鮮へ赴きたいということになった。しかし、ヨーロッパから帰国した岩倉や大久保に止められた(1873年10月)。
そのころ、朝鮮では大院君が景福宮再建のために様々な税金を設け、官職を売ったりしていることに不満が高まっていた。大院君は外戚を排斥するために、実子である高宗に係累の少ない妃を望み、高宗に自らの夫人の遠縁である明成皇后閔妃と結婚させたのですが、この閔妃は、大院君の長男や兄、神貞王后の甥の趙寧夏、大物両班の崔益鉉などと党派を組み、1873年11月に親政を開始させ、大院君を排除した。
それを見た日本は、閔妃が開国に前向きだというので積極策に出た。1875年に、江華島付近を測量中の日本軍艦に朝鮮側から発砲があって交戦状態となったのだが、これが江華島事件だ。この事件は、日本に挑発されてのことと朝鮮側は主張したが、確たる証拠はなく、たとえ挑発があったにしてもそれにのって先に砲撃したのは朝鮮側であるので不利な立場になった。一般の刑事事件でも挑発されてやったことは罪を問われないなどと言うことにはならない。
その結果、翌年になって結ばれたのが「日朝修好条規(江華島条約)」である。この条約で、朝鮮は「自主の国 」であるとしたが、日本が朝鮮の清国からの独立に力を貸そうとしたのである。
また、釜山以外に新たに仁川、元山を開港すること、開港地における治外法権の承認などが定められた。こうして、日本は朝鮮王国の門戸をこじ開け、国交を結ぶことに成功しましたが、これを無理やり開国させたのだからけしからんというべきだろうか。
それなら、日本に対するペリーがまさにそうなのだが、むしろ恩人といわれているから感謝されてなにもおかしくない。
じっさい、朝鮮の朝廷では何度か日本に使節を送り、文明開化の成果を知るところとなり親日派が増えた。 ところが、閔妃は巫堂ノリという新興宗教に凝り、莫大な公金を費消するという暴走を始めた。
そして、1882年閔妃派の新式軍隊優遇に不満を持つ旧式軍隊や大院君派が暴動を起こし、親日派の政治家を殺すなど閔妃派を一掃し、大院君を執政者に推薦する事件が起った。このとき、日本人の指導教官は殺され、花房公使は日本に逃げ帰った。
このとき、大院君が頼ったのは清国だが、いくらなんでも、朝鮮側の暴虐は非常識だというので、日本と大院君派の政府の間で、日本に賠償金50万円を支払い、日本に謝罪使を出し、日本公使館に日本兵を駐屯させることを認める協約を締結させたのだ。
このときの謝罪使節が船内で考案したのが韓国国旗になっている太極旗である。そして、日本にやってきた朝鮮の使節は、日本の発展に驚き、親日的なムードが高まったのだ。朝鮮側の非常識な無礼で始まった近代日韓関係だが、それでも、かなりいいムードで以来指向の関係が開かれたのである。
それをおかしくしてしまったのは、朝鮮の政治家たちの私的な思惑でもてあそばれ、不幸が始まったのであるが、いま起きている一連の事態もその“デジャヴ”のような気がする。