「憲法」に関する議論が大きな曲がり角を迎えようとしています。
これまでは、「保守」・「リベラル」を問わず、「日本の安全保障に関連した論点」(特に、第9条の改正の是非)を中心として展開されてきましたが、既に、多くの国民が「十年一日の如き議論」に辟易しているのに加え、政治家や識者の間においても、従来の議論や論理の限界が強く意識され始めています。
例えば、「保守」の間では、安倍政権に対する一定の支持があるものの、自由民主党が「自主憲法の制定を党是として掲げながら、目標を第九条の改正に矮小化している」ことや「改正のための国民投票が、第九条以外の条項を全て是認する意味を持つ」ことに対する不満が日増しに大きくなりつつあります。
また、「リベラル」の間では、「平和憲法があったから戦後の日本の平和が保たれた」という認識や「日本国憲法の平和主義が世界の平和に寄与する」という主張が、国内の一部の知識人以外からは殆ど支持されていないという現実(更に言えば、国際的な情報の遣り取りに習熟した若者からは冷笑されているという事実)に対する危機感が高まり、論理の根本的な再構築を迫られています。
このような状況も踏まえ、我々「新しい日本を創る会」が設立支援をしている「日本公和党」(日本らしい政治思想を掲げ、自由民主党に代わって、長く政権を担い得る保守新党)では、「日本国憲法を一旦廃止し、多くの国民が自らの国民性や国家の将来を熟慮した上で、国柄と時代に合った新しい憲法を定める」ことを提唱しています。
特に、今年の前半は、「統一地方選」・「御代代わり」・「参院選」と続き、多くの国民が「これからの日本」について真剣に意見を交わすにはまたと無い好機なので、「現在の日本国憲法は、本当に、心正しく生きる国民を護り、海外に誇り得るものなのか」という「新たな視点」による根本的な議論が望まれます。
そのような議論の中で、私が真っ先に問題にしたいのは、「日本の社会に、無責任な人間(特に、口先ばかり達者で責任感の乏しい人間)を蔓延らせてきた元凶はどこにあるか」ということです。
近年、社会を賑わすニュースを見ていると、親の責任・教師の責任・経営者の責任・法律家の責任・政治家の責任・等々、「責任」は一体どうなっているのだと思わざるを得ないことが多く、無責任な人間のために幼い命が犠牲になったなどと報じられると、文字通り、胸の潰れる思いがします。
また、「権利」ばかりを声高に主張し、好き勝手なことをしている人達を見ると、あんなことをしていて責任が取れるのだろうかと、しばしば、心配になります。
「責任」という概念は、一般に「道義的な責任」と「法律的な責任」で構成されていると考えられますが、日本の社会における両者の究極的な根拠は、「人の道」と「日本国憲法」にあります。
日本人の「人の道」を重視する生き方は、「人としてやって良いことと悪いことを峻別するという倫理観」の崇高さについても、徹底ぶりについても、あの「東北大震災」(2011年3月11日)直後の日本国民の行動によって見事に証明され、世界に発信されました。
それでは、「日本国憲法」を重視する生き方は、「憲法を絶対視する戦後教育」を通して、日本人の行動をどのように規定してきたのでしょうか。
そこで、改めて、「日本国憲法」に「権」(例えば、権利・権限・権力)という概念と「責」(例えば、責任・責務)という概念がどのように登場するかを調べてみると、驚くべきことが明らかになります。
念のため、それぞれの概念を、章ごとに、登場順に示すと、「権」は
(前文)主権、権威、権力、主権
(第一章)主権、権能、全権、復権
(第二章)国権、交戦権
(第三章)人権、人権、権利、権利、権利、特権、権利、権利、特権、権力、権利、財産権、権利、権利、権利、権利、権利、財産権、財産権、権利、権限、権利、権利、権限、権利、権利
(第四章)国権
(第五章)行政権、行政権、復権、権利
(第六章)司法権、職権、権限、権限、権限、権利
(第七章)権限、権限
(第八章)権能
(第十章)人権、権利、権利
(第十一章)権限の「54箇所」、「責」は(前文)責務
(第一章)責任
(第三章)責任、責任、責任、責任
(第四章)責任
(第五章)責任
(第七章)責任
の「9箇所」となります。
因みに、「義務」という言葉が「5箇所」登場しますが、それを「広義の責任」として「責」に加えたとしても「14箇所」にしかなりません。
このことから読み取れることは、「日本国憲法は、権利意識が濃厚で、責任意識の希薄な国民を増やすために存在している」ということですが、これは、言うまでもなく、「権利や権限を口にする者には、相応の責任が伴う」(また、「大きな責任を担う者には、大きな権利や権限が与えられる」)という日本人の伝統的な社会通念とは大きく乖離しています。
「憲法」に関する議論については、「日本人は、究極的な行動規範として、人の道を大切にすべきなのか、憲法を大切にすべきなのか」という人間哲学的な問題もあるのですが、それ以前に、「日本国憲法を、このまま放置しておくと、ますます、無責任な人間を増やすことになる」という現状認識を、多くの国民が共有すべきであると思います。
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三輪 真之(みわ まゆき)計画哲学研究所・所長、工学博士
1946年岐阜県生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(都市計画専攻、博士課程)修了。1972年に計画哲学研究所を創設。東京デザイン専門学校講師・早稲田大学客員教授・国士舘大学講師などを経て、現在は「新しい日本を創る会」代表。2016年から「知る人ぞ知る現代のソクラテス」と称してfacebookを開始。