誰からもチョコレートをもらえないと、中年は辛い

悲報。

今年は、誰からも、チョコレートをもらえなかった。さすがに1歳7ヶ月の娘は、バレンタインデーの存在すら知らないと思うが、妻からももらえなかった。

しばらく母からはもらっていないし、もらうべきでもない。こんな日に「前にもらったトリュフのチョコレート、美味しかった。あれはどこの?またおくって」というLINEがきた。親孝行できるのは有り難いことなので、今度、贈ることにしよう。

職場でももちろんゼロだった。同僚の教職員からも、教え子からもゼロだ。

私は、義理チョコについて批判的な立場をとってきた。特に非正規雇用の方や、若年層にとって、チョコレートの負担は重い。これらが軽減されるのは良いことではないか、と。

人間の価値はチョコレートでは決まらないはずだ。人は生きているだけで、素晴らしいものである。

ただ、本命だろうと、義理だろうと、1個でももらっている人をみると、羨ましく感じるものである。幼い頃からそうだった。

そして、44歳にして、チョコゼロの悲劇を味わうとは。この瞬間、チョコによる支配から卒業できたようにも思えるし、所詮、チョコに振り回されていたのではないかと自分のことが惨めに思えたり。実に複雑な心境である。

私は、積極的に、男らしさを捨ててきた。社畜から、家畜への道を選んだ。その実態については、このエントリーにまとめた。BLOGOSは載せてくれなかったが、私の周りでは大反響だった。

44歳、左翼であることに疲れた評論家は「召使い」として生きる選択をした(アゴラ)

主夫として家庭にも貢献している、つもりだった。このエントリーなど大反響で。おかげで、主夫という生き方について講演や執筆依頼もきている。

あえて言おう。私は「家畜」である- ITmedia ビジネスオンライン 

しかし、チョコゼロというのは、このような、自分が築いてきたものが、ガラガラと崩れてしまうようなショックだった。自由になれた気がしただけだった。なんというか、男らしさとか、父の威厳のようなものに実は自分はしがみついていたのではないかと猛反省した次第だ。

それでも、私は、生きる。明日も早起きして、家族の食事をつくり、ゴミ捨てをし、娘の保育園への送り迎えをするだろう。それが生きている証だから。

人間の価値はチョコレートでは決まらないと信じたい。その想いを揺るぎないものにするために、明日からまた生きるつもりだ。ここまで読んでくれてありがとう。

ウサギは寂しすぎたら死んじゃうんだぞ。

中川淳一郎からは、自撮り写真を最低4枚載せろと言われているが、今日は1枚が限界。ファンのみんな、許してほしい。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年2月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。