再生医療に対するNature誌での批判

中村 祐輔

写真AC:編集部

1月31日号のNature誌に「Stem-cell therapy raises concerns」というコメントが掲載されていた。「脊髄損傷に対して患者さん自身の間葉性幹細胞を培養して増やし、それを静脈注射で患者さんの身体に戻す」治療法を、日本では有償で実施することが認められたことに対する批判だ。

“I do not think it is morally justified to charge patients for an unproven therapy that has risks.”との科学者のコメントが掲載されていた。有効性が示されていない、リスクのある治療法に対して患者さんから費用を取ることを道徳的に問題視しているような印象を与えるコメントだ。私には、静脈注射で幹細胞を注射しても、脊髄損傷部位に届く細胞がどれだけいるのかといった科学的な観点の方が気になるのだが。

私は、「再生医療に対する評価が甘いのでは」と批判し続けているが、この海外からのコメントには一言文句をつけたい。「有効性を示すエビデンスがないこと」と「効果がない」ことは同一ではない。いろいろな研究の成果から、可能性を見出して、人で検証する作業が始まる。

この著者は、効果があると証明されていないものに課金することは、道徳的な観点で問題があると信じているようだ。巨大な製薬企業(あるいは、大きな投資を集めることのできるベンチャー)が膨大な資金を投入して臨床試験を実施することができる欧米では常識かもしれない。しかし、大学の研究者や日本の大学発ベンチャーが、膨大な資金を必要とする臨床試験を実施することは極めて難しい。しかも、5-10年もの気の遠くなるような時間がかかる。日本の置かれた環境では、アカデミアで生み出された、稀少な疾患に対する薬剤を開発するには特別な制度が必要だと思う。

脊髄損傷のような例では、患者さんの置かれた状況にも考慮が必要だ。脊髄の下部が損傷なら下半身まひ、上部であれば四肢麻痺となる。後者の場合、残された人生を他人の助けなしで生きていくことが難しくなる。種々のAIを搭載したロボット補助装置ができてくれば行動の自由がかなり改善される可能性があるとは思うが、現時点での日常生活の制約は大きい。そして、今は何も治療法がない。

そんな患者さんが、効くか効かないかわからない治療法であっても、可能性に賭けてみたい、それを自己で負担してでも試みたい場合、何が問題なのかと思う。何もしなければ何も変わらない、そんな人生から少しでも回復したいと思う人の権利を守ることが重要なのではないか?当然ながら、しっかりとしたモニタリングは不可欠だ。

確かに、お金のある人だけが可能性に賭けることができるので、貧富の差といった問題は生ずる。しかし、これを問題視するなら、特定の子供のために移植医療のための募金をしている日本のメディアなど理不尽極まりないと言える。このような形でしか、前に進めないなら、それでもいいのではないかと思う。そして、いい結果が出れば、その時点で医療保険が適用されるようにすれば、多くの患者さんが恩恵を受けることができるはずだ。

国の予算が限られ、製薬企業が支援しない日本の現状であれば、患者さん自身が納得した上で、このような形で新しい医療を生み出していくこともあっていいのではないかと思う。ただし、きっちりとしたデータの報告・公表は絶対的に必要だ。有償の形でデータが蓄積され、稀少疾患に対する新しい治療が開発されていくことは決して間違ったことではないと思うのは私だけだろうか?


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2019年2月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。