『日本のベスト高校100』(啓文堂書房)のさわりということで、「東京一中(日比谷)から二十三中(大森)までの物語」を書いたが、こんどは、大阪をテーマにしたい。
関西でも灘高校・甲陽学院・神戸女学院がある兵庫県は私立優位だが、大阪は伝統的に公立優位で、それはいまも変わらない。ただし、学区制は頻繁にかわり、それによる明暗はあって、公立同士でもインテリ層が多い地区が学区だと実績が上がるし、そうでない地区では公立が忌避されて私立に流れるなどドミノ現象が目立つ。
戦後の大阪府では、①13学区(1950年)、②5学区(1963年)、③9学区(1973年)、④4学区(1997)、⑤学区撤廃(2013年)と変遷してきた。
北野高校、天王寺高校、大手前高校の京都大学合格者は、①の時代の1955年にそれぞれ26、18、21人、②の時代の1965年に55、98、76人、1975年に112、92、76人、③の時代の1985年に64、45、31人、1995年に53人、26、11人、④の時代の2007年に40人、43人、28人、⑤の時代の2018年に62、63、25人と推移している。
いろいろな要素がからんでいるのだが、北野高校がどの時代にも比較的に好調だったのは、比較的、インテリの多い地域が通学区に入っていたからだ。
明治6年(1873年)に創立された欧学校は、進級学校などの名称を経て、明治10年(1877年)に大阪府第一番中学校となり、議会による予算否決で私立学校になったりもしたが、明治19年(1886年)に府立大阪尋常中学校と改称した。
さらに、第一尋常中学校 第一中学校 堂島中学校を経て明治35年(1902年)に北野中学となった。その後、大正10年(1921年)に阪急の十三駅に近い現在地(東淀川区)に移転したが、名称はそのままになった。第十三中学と紛らわしくなるのも理由だったらしい。
その後、現在の天王寺高校である第五尋常中学の設立に当たっての生徒の一部を割譲し、戦後の新制移行では、大手前高校(旧制高女)と再編成を経たが、校舎などはそのままである。
天王寺の最初の入試は北野と合同で行い、1受験生の住所によって、市内北部在住者は第一尋常中学校に、南部在住者は第五尋常中学校へと振り分けた。また第一尋常中学校の在籍者についても、南部在住の188人を第五尋常中学校へ転校させた。
北野は橋下徹の母校であり、甲子園での優勝経験もある。天王寺はラグビーが盛んで全国制覇もしている。ただし、もっとも有名なOBはサッカーの岡田武史だ。
大手前は明治15年(1882年)に府立大阪師範学校に設置された附属裁縫場が、四年後に大阪府女学校として独立したことをもって創立としている。実質的に日本一の女学校だった。戦後は、北野高校と生徒・教職員を半分ずつ交換して、男女共学となった。なお、四天王寺は西の桜蔭といわれる女子校でスポーツの世界でも有名だ。
明治28年(1895年)に大阪府立第二尋常中学校として出発したのが、堺市の三国丘高校である。堺・天王寺・平野・八尾・岸和田などが誘致したが、明治25年(1892年)に第二尋常中学校が大鳥郡向井村大字中筋(現在地)に建設されることになり、明治34年(1901年)に堺中学に改称し、戦後、三国丘高校となった。摂津、河内、和泉の三つの国の境界にあること因む。ちなみに、現在の和泉と摂津の境界は大和川だが、明治時代までは堺の中心部を通っていた。
そのほか旧制中学から続く高校を創立順にあげると、第三中学は八尾高校、第四中学は川端康成の茨木中学で、天王寺高校が5番目。コシノヒロコ・ジュンコ(ファッションデザイナー)の岸和田高校、広岡知男(朝日新聞)の市岡高校(高校野球草創期の名門)、岸本忠三(大阪大学総長)の富田林高校、井植敏(三洋電機)、安岡正篤( 陽明学者)らの四条畷高校 、福井謙一 (ノーベル化学賞)の今宮高校、 武田長兵衛(武田薬品工業)の高津高校、サトウサンペイ (漫画家)の生野高校、西山卯三(住居学者)の豊中高校、猿橋望(NOVA)の鳳高校、堺屋太一(作家)の住吉高校、永井一郎(声優)の池田高校、西野あきら(代議士)の布施高校が旧六中から一七中である。