「低学歴」が過激になるのか?
政治・社会問題の議論を眺めていると時折驚くほど過激な意見に出くわす。特にネット上では過激な議論は日常茶飯事であり、冷静な議論を見る方が稀と思うときすらある。
ネット右翼を論ずる文章はネット上はもちろん書籍でも多数あり、日本型リベラルによるとこの「ネット右翼」こそが昨今の日本の右傾化の象徴かつ推進役であると言う。
そしてこのネット右翼を論ずる文章を読むと彼(女)らの学歴に触れるものも少なくない。
要はネット右翼は低学歴で知的水準が低いと言いたいようで「低学歴で知性が低い者がネット右翼になる」と言わんばかりである。
「低学歴=反知性=過激化」という構図は人口に膾炙しやすい。
確かに「高学歴」「エリート」は過激な思想を持たないと考える人は多いだろう。
しかし事はそう単純ではなく戦後日本を振り返ると案外、「エリート」は過激な発言・行動をしている。
日本初の国際テロ集団たる日本赤軍は東大・京大を始めとした有名大学出身者ばかりだったし未曾有の無差別殺傷事件を起こしたオウム真理教の幹部もまた東大・京大といった高学歴の者ばかりだった。
過激な発言・行動をするのは非エリートだけなのか、エリートはこうしたこととは本当に無縁なのだろうか。
「満たされないエリート」としての小西洋之議員
現在の日本で高度な知的水準を窺わせる華やかな経歴の持ち主にも関わらず、その発言・行動によってその知的水準に疑念を抱かれているのが立憲民主党系会派所属の小西洋之議員だろう。
最近でも国会での質問の際に「法の支配の対義語はなんですか?」といった具合で安倍首相を挑発し、途中から答弁に加わった横畑内閣法制局長官の発言を批判し国会審議を動揺させている。
小西議員の他者を平然と挑発・侮辱する姿勢は昔からありむしろ氏の個性とすらなっている。
かつて小西議員は集団的自衛権を限定容認した安保法制を巡って「自衛隊員は他国の子供を殺傷する恐怖の使徒になる」と自衛隊員を挑発し、それに触発されたかどうかは不明だが幹部自衛官が業務外で小西氏を批判しちょっとした騒ぎになった。
自衛官の業務外での発言に「文民統制」の考えを単純に当てはめて良いのか疑問だが、いずれにしろ騒ぎになった。
小西議員の他者を挑発・侮辱する発言は議論が白熱し思わず口走ってしまったという性格ではない。安倍首相への質問を見ても事前に準備していたものと考えるのが自然であり、要は故意であり極めて問題であると言えよう。
さて、小西議員の挑発・侮辱的言動を見る限り氏が何故、中央官庁を辞めて国会議員になったのか想像を掻き立てられる人も多いのではないか。
少なくとも氏は知識を他人に伝達する技術は高くなく円滑なコミュニケーションをとることは困難な人物であるのは間違いない。はっきり言って小西議員の説得・交渉と言った平和的対人折衝能力は極めて低いと言わざるを得ない。
小西議員はいわゆる「エリート」で知識が豊富なのかもしれないがだが平和的対人折衝能力の欠如のためその知識を全く生かし切れていない。
小西議員は議員生活に満足しているだろうか。いや、していないだろう。
満足していないから他人を平然と挑発・侮辱して溜飲を下げているのが実情ではないか。
言うなれば小西議員は「満たされないエリート」である。
前記した連合赤軍やオウム真理教にいたエリートもまた「満たされないエリート」から成っていた。誤解のないよう強調しておくが小西議員が違法活動を行う恐れがある人物と主張したいわけではない。
平和的対人折衝能力(説得・交渉等)が欠如しているエリートが非平和的対人折衝方法(挑発・侮辱等)を選択することは合理的とも言える。
狭隘で流動性が低い日本のエリート社会
「満たされないエリート」はビジネスの世界では生存しづらい。
元来、ビジネスは競争社会でありエリートが成立しにくい世界である。ビジネスの世界では「自分はエリートである」と自負した瞬間から淘汰の対象になる。
問題は非ビジネスの世界、官庁や研究の世界である。
公務員の内、いわゆる「官僚」は文句なくエリートで政策調整に関与できるし研究者も世間一般の認識ではエリートであり、とりわけ文系研究者はその守備範囲の広さから政策調整にこそ関与できないが野党やマスコミを通じて影響力を行使したがる(理系研究者は無害と言って良い)。
まさに官庁と研究の世界はエリートを輩出し日本社会を動かしている。
では官庁の世界ではどのような能力評価が行われるのか。確実に言えるのは官庁の世界では入省(庁)年次が決定的に重要である。もちろん個人の能力も評価されるが入省(庁)年次が無視されることはない。
また筆者は研究の世界は知らないが池田信夫氏の指摘に基づくならば文系研究者の世界では事実上の徒弟制度が敷かれていると言う。
これらのことから官庁と研究の世界は人材の流動性が低い世界と言える。
エリート社会は本質的に狭隘であるから日本のエリート社会は狭隘で流動性が低い世界と言えよう。
狭隘で流動性が低い世界だから「優秀な自分が何故、この程度の待遇なのか…」と思う人間が出てきて、そこから派生して社会全体に反発することは不思議なことではない。
そして今話題の望月衣塑子記者の騒動も「満たされないエリート」の問題である。
今も昔も新聞・テレビ関係者は基本的にはエリートであり、かつては政治や社会に対して圧倒的な影響力を行使していた。そしてその時代では新聞・テレビ関係者は身心ともに満たされていたに違いない。
望月記者当人が影響力を行使していたとはとても思えないが彼女の上司・先輩は行使しており、彼女はそれを間近で見ていたのではないか。望月記者の年齢(1975年生まれ)を考えれば十分にあり得る話である。
しかしネットの爆発的発展により新聞・テレビは圧倒的な影響力を行使できなくなった。
そして新聞・テレビ業界もまた既得権益である。既得権益だから人材の流動性が低い。
ネットの爆発的発展により新聞・テレビ業界でも「満たされないエリート」が出現、顕在化し、その一人が望月記者なのではないか。
ネット右翼よりも「満たされないエリート」の方が問題である
今の日本で「学歴」がどこまで威力を発揮するのかわからないが、仮に「学歴」が威力を発揮し華やかな学歴がない者に不利な社会であっても、出発点が低ければ後は実績を積み重ねて行けば良いだけの話である。
しかし出発点が高い人間の場合はどうだろうか。案外、出発点の高さばかりを意識してしまい努力を怠ってしまうのではないか。
小西洋之議員や望月衣塑子記者の騒動で窺えるのは日本のエリート社会の動脈硬化であり、この動脈硬化が改善されなくては「満たされないエリート」が輩出され彼(女)らは思わぬ行動に出て社会を攪乱、最悪、破壊するだろう。
現在、ネット右翼の危険性が指摘されるが、そのネット右翼も社会を破壊するまでには至っていない。元来、それほどの力がある存在とも思えない。
しかし「満たされないエリート」は知的水準も高く社会を破壊するだけの力を持っている。
だから素性の知れないネット右翼より「満たされないエリート」の方がはるかに深刻な自由社会への脅威である。
「満たされないエリート」による社会の攪乱・破壊を防ぐために必要なことは先ずもって都市・地方双方が実感できる景気回復である。経済の活性化は社会参加の機会を増加させ、エリート意識を満たす選択肢を増やす。
そして最も重要なのはエリートの世界に健全な競争原理を導入することであり、それは要するに既得権益の正常化である。
このように「自由社会の追求」が適材適所を実現し心身ともに個人を満足させ、結果的に自由社会を守るのである。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員