2月末に行われた米朝首脳会談の失敗は、金正恩政権にとってかなりの痛手であったことは間違いない。長時間かけて鳴り物入りでベトナムに入国し、自国の人民のみならず世界各国の人々の注目と期待を寄せておきながら、結局何の成果もないまま手ぶらで帰国させられた金正恩委員長は、さぞや砂をかむような思いでベトナムを後にしたことだろう。
北朝鮮の李外相によると、今回の首脳会談の交渉では、「国連安保理制裁11件のうち2016年から2017年に採択されたうちの5件を解除すれば、寧辺(ヨンビョン)の核のプルトニウムとウランを含む全ての核物質生産施設を米国の専門家らの立ち会いの下で完全に廃棄する」と提案したとされているが、この発言はそれなりに信ぴょう性があると考えられる。というのも、北朝鮮は当初より現在まで一貫して「段階的非核化」措置を米側に訴えているからである。
今回の米朝会談後、暫くのあいだ関連報道を控えていた北朝鮮のメディアも今月11日ごろからこぞって「完全な非核化」についてあらためて言及し始めており、13日にはインターネットの対外宣伝メディアが「部分的制裁解除の要求は、信頼醸成と段階的解決の原則に従う最も現実的で大きな歩幅の非核化措置だ」などと、この「段階的非核化」の有効性を報じている。
おそらく、先の会談で「寧辺の核施設廃棄」の見返りとして要求した「国連安保理制裁11件のうち2016年から2017年に採択されたうちの5件」というのは、最大の輸出産業である石炭や鉄鉱石などの輸出禁止、原油や石油精製品の輸入制限などという事項に加えて、何よりこの時期に指定された計53人30団体に及ぶ資産凍結などの金融制裁に関する解除を求めたものであろう。即ち、米側にとっては「最も影響力のある制裁」全ての解除を求めた、と受け止められるような内容であったものと考えられる。
このやり取りは、2005年に中国の特別行政区マカオにある中規模現行バンコ・デルタ・アジア(BDA)の北朝鮮資産(52口座2,500万ドル)が凍結された時を彷彿とさせるものである。この時も北朝鮮は、この制裁の解除を条件に(米朝協議から6者協議を経て)寧辺核施設の稼働停止と封印を約束したのであった。
北朝鮮にとって外貨(ドル)そのものが入手できなくなることは、指導者(2005年時は金正日総書記)の求心力を弱めることにつながり、これが長引くことは将来において自身の身が危険にさらされる可能性も考慮しなければならないほどの危機たり得るのであろう。
金英哲副委員長の去就に注目
米国務省のビーガン北朝鮮担当特別代表は、今月11日の講演で「我々は(北朝鮮が求める)段階的な非核化は目指していない」として、「我々は全面的かつ完全な解決を意味する『トータルソリューション』を望む。これは政権内で一致している」と述べた。
彼は、今年1月の講演では「(北朝鮮が)全てを終えるまで我々は何もしないとは言っていない」などと発言。2月末の首脳会談へ向けて北朝鮮が求める「行動対行動」措置への転換を示唆していたが、この11日の発言は今回の米朝会談を受けてこれまでの流れを再び修正し、「ビッグディールの原則」に戻すというトランプ大統領の交渉戦略を明確に伝えたものと受け止められる。
ここで問われるのは、北朝鮮の代表として事前交渉に当たってきた金正恩委員長の側近である金英哲副委員長の責任である。彼は、今年1月に訪米してポンペオ国務長官と会談し、トランプ大統領に金正恩委員長の親書を手渡すなどして首脳会談開催のお膳立てを行った。その後も、2月6日から8日にかけて訪朝したビーガン特別代表と入念な事前協議を実施したものの、実際の首脳会談に際しては結局何の成果もなく、結果的に金正恩委員長に恥をかかせるようなことになってしまった。このことについて彼は、強い自責の念を抱いているのではないだろうか。
本来、金英哲副委員長は、少佐時代から南北軍事停戦委員会の連絡将校を務めるなど軍政畑を歩いてきた生粋のエリート軍人である。2009年には、非正規戦や諜報及び各種工作活動などをつかさどる統合部隊として発足した「朝鮮人民軍省察総局」の初代局長に就任した。この頃から、金正日国防委員長に次いで将来北朝鮮の指導者となるであろう金正恩を軍事面で補佐していたと見られ、金正恩が発案したとされる2010年の「韓国哨戒艦沈没事件」や「延坪島砲撃事件」などの韓国に対する奇襲攻撃を実質的に指揮した武闘派である。
その軍功から、人民軍はもとより北朝鮮内において英雄とたたえられ、果ては人民代議員から党の幹部となり、党中央委員会副委員長にまで上りつめた。「回転ドア人事」と呼ばれるような入れ替わりの激しい金正恩政権における高級将校の中で、唯一生き残ってきた側近中の側近である。
今回の非核交渉の代表に選ばれたのも、彼が朝鮮人民軍、即ち強硬派の代表そのものであるという見地からであろう。つまり、金正恩が「非核化」という柔軟路線を採るにあたり、「軍などの強硬派もこれに追随している」という姿勢を内外に示す必要があったのだろうと思われる。
従って、今回の会談の結果を受けて、金英哲副委員長が今後更迭されるようなことがあれば、それは内部における権力闘争や金正恩政権の方針転換を示唆する兆候と捉えられ、その後の北朝鮮の行動には特に注意しなければならない。
今後北朝鮮が採り得る選択肢
今後考えられる北朝鮮側のシナリオとしては、
①中国やロシアを介して米国に「段階的非核化」に応じるよう促す。
②再び強硬路線に戻り、一歩も引かない姿勢を示す。
③米国の求める「ビッグディール」に応じる。
④上記の混合
というようなものだと考えられる。
このうち、まず①については、容易に推察される成り行きではあるものの、現在の米中関係や米ロ関係を考慮すると、これだけではあまり有効な策とはならないと考えられる。
②については、すでにその兆候が見られているように、核・ミサイル開発の再開を示唆するような示威行動をとることが予想される。その場合、米国へのインパクトを多少なりとも軽減させるため、「衛星ロケットの打ち上げ」という名目で友好国を招へいするなどして、「火星15号」の発射準備を推進する可能性がある。
このような示威行動は、国内の軍部など強硬派に対して「決して金正恩指導者は米国の制裁に屈して妥協するようなまねはしない」という姿勢を示し、国内の引き締めと自らの求心力を強めるために利用されるであろう。その一方で、対外的には再び朝鮮半島に緊張状態を作為して米中にゆさぶりをかけ、①につなげるという可能性が考えられる。
③については、今後の米朝による高官レベルの協議次第で十分にあり得ると思える。というのも、この「ビッグディール」を受け入れたとしても、その検証が短期間に完結することは物理的に困難であるので、北朝鮮は「これに応じる」と表明し、その実行段階で①や②を駆使して一部の制裁解除を勝ち取る可能性を追求するということが考えられる。従って、北朝鮮はこの選択肢を視野に入れて、強硬路線を歩むように見せかけて、米国との交渉は継続しようとするであろう。つまり、上記でいう④というのが最もあり得る選択肢だということになる。
しかし、この④については、あわよくば現状維持で制裁解除という実だけ取るという「いつか来た道」につながる危険性が考えられるので、米国は十分に納得できる北朝鮮側の行動が伴わない限り、一切制裁解除に応じることはないであろう。要するに、11日にビーガン特別代表が講演の中で「我々はもっと信頼関係を構築しなければならない」と述べたように、現時点での信頼関係が希薄であることが交渉の成立を阻害しているのであるから、協議の積み重ねと実際の行動が何より「自らの立場を有利にする」ということを北朝鮮は学ばなければならない。
強硬路線に戻ることは、それだけ制裁解除の道が遠のく以外に何らのメリットもないことを国際社会は一致して北朝鮮に気付かせる必要があろう。
それよりも何よりも、わが国としては、米朝の交渉を完全に決裂させることなく、この「信頼関係の構築」という感激にいかにうまく割り込んで「拉致問題の解決」をするかという戦略が求められているのではないだろうか。
鈴木 衛士(すずき えいじ)
1960年京都府京都市生まれ。83年に大学を卒業後、陸上自衛隊に2等陸士として入隊する。2年後に離隊するも85年に幹部候補生として航空自衛隊に再入隊。3等空尉に任官後は約30年にわたり情報幹部として航空自衛隊の各部隊や防衛省航空幕僚監部、防衛省情報本部などで勤務。防衛のみならず大規模災害や国際平和協力活動等に関わる情報の収集や分析にあたる。北朝鮮の弾道ミサイル発射事案や東日本大震災、自衛隊のイラク派遣など数々の重大事案において第一線で活躍。2015年に空将補で退官。著書に『北朝鮮は「悪」じゃない』(幻冬舎ルネッサンス)。