EUからの離脱について、イギリスは6月30日までの延期をEU側に求めたが、EU側は4月12日までに離脱協定案の議会承認を条件とする立場をまだ崩しておらず、合意無き離脱の可能性も十分に残っていて、事態は迷走が続いている。これはメイ首相がこれまであまりに交渉内容について秘密主義で議会の多数派工作を怠り、かつ離脱協定案が再々議会で否決されても自論を曲げない石頭であったことが最大の原因だと思う。
しかし、そのEU離脱交渉の過程ではメイ首相は、配下のMI6を使って交渉を自国に有利に運ぶという、なかなかの手腕を発揮しているようだ。MI6は「007」のジェームス・ボンドでおなじみのイギリスの諜報機関だが、イギリスのデイリーテレグラフ紙は、MI6がEU側の情報入手に暗躍していることを伝えている。
それは昨年7月5日のことだが、EUの交渉担当官の間で配布された極秘資料が、何時間も経たないうちにイギリス側の手に渡り、その情報を基にイギリスのメイ首相がドイツのメルケル首相などにロビーイングを行ったため、翌週のEU理事会の際にイギリス側のスパイ行為への懸念が話題となったそうだ。
また、スパイ事件と言えば最近の報道で、トランプ大統領のフロリダの別荘に侵入した中国人女がアメリカの連邦検察に訴追されたことが報じられた。この別荘は、トランプ大統領と習近平国家主席の首脳会談が開かれる予定(現状延期中)の場所だ。中国人の女は外部からコンピュータを操るマルウェア(不正プログラム)が入ったUSBメモリーを持っていたほか、所持品には、中国のパスポート2冊や携帯電話4台とパソコンが含まれていたという。
記事だけを読むと、相当どじな女スパイだと思われるかもしれないが、そうではなく恐らくアメリカ側は事前に何らかの情報を把握していて、この中国人女を待ち受けて捕まえたのだろう。
最近はファーウェイの問題を始め、マリオットホテルのシステムが中国公安部に所属すると思われる中国人にハッキングされて5億人分の個人情報が流出するなど、中国のスパイ組織の暗躍が目立っている。
しかし、諜報活動は中国だけのものではない。中国人女の大統領別荘侵入事件の記事を読んで、私は2010年11月にフランスのトゥールーズで起きた同様の事件のことを思い出した。この時は今回とは逆に中国側がスパイ活動の標的とされた事件で、中国の東方航空の会長がエアバス社を訪問するために宿泊していたホテルの部屋に、フランスのスパイ組織(DGSE)の工作員3名が会長不在のスキに侵入したものだ。工作員たちが会長のカバンを開けようとしていたまさにその時、部屋に帰ってきた会長と鉢合わせしたため、工作員達はパソコンや鍵開け器具などのスパイの七つ道具の入ったカバンを置き忘れて慌てて部屋を出たのだった。
さらに、少し前のことになるがアメリカも、ドイツのシュピーゲル誌等の記事によれば、2010年にアメリカのNSAがメルケル首相の電話を10年以上盗聴していたことが発覚し、激怒したメルケル首相に当時のオバマ大統領が謝罪したそうだ。
このように様々な国のスパイが、世界中で日常茶飯的に機密情報を盗んでいるが、マスメディアで報じられるのは、なにかスパイ側で失敗や手違いがあって活動が明るみに出た時だけなので、報道されるのはほんの氷山の一角だ。
また、スパイ活動というと何か重要な機密を盗むことだけを想起しがちだが、それだけではない。スパイは、相手国のマスコミに入り込んだり、マスコミに働きかけて世論操作を行ったり、政治家にアプローチして自国に都合の良い発言をさせたり、政策を採用させたりすることを忘れてはいけない。
前回のアメリカの大統領選挙にロシアがインターネット等を通じて世論操作を行ったり、トランプ大統領の選挙陣営に影響力を及ぼしたことは、トランプ大統領の関与があったかどうかは別にして、恐らく事実なのであろう。
一方、民主党のヒラリー・クリントン陣営も中国のお金の力の影響を受けていたことが疑われる。何しろクリントン財団には中国から極めて多額の寄付が行われているのだから、影響を受けないという方が不自然だ。
オーストラリアも中国のスパイ組織の政界への浸透が強まっており、中国人富豪から献金を受けた野党議員が、南シナ海問題で中国の主張を認めるような発言をしていたが、オーストラリア側もここに来て警戒感を強めるようになってきており、本年2月初めには、モリソン首相は国内で巨額の政治献金を行っていた中国人実業家の黄向墨氏の居住権をはく奪し、実質的に入国拒否とした。
ひるがえって、わが国の現状を見ると、、野党や左翼メディアなどの激しい反対の中で2013年にやっと特定秘密保護法が制定されたが、対象となる秘密の範囲が極めて狭く、とても現代の各国のスパイ活動を防止するのには十分でない。また、上記のような外国のスパイ組織などによる世論操作などについては、政治資金規正法で外国人や外国法人からの献金を受け取ることは禁止されているが、そのほかの活動は全くの野放しとなっている。
今や世界中で各国の諜報機関の活動が活発になっている中で、我々も防御する姿勢を取ることが大切だ。しかしこの問題に対処するために何か規制を掛けることについては、マスコミの報道やデモなどの表現の自由・報道の自由を守るという別の要請との兼ね合いが難しいことも事実だ。
我々は自分自身で、ニュースや記事を報じる主体の日頃の考え方の傾向などを勘案しつつ、報道の背景にある各種の事情を推測するしかないのだろうか。ブレグジット交渉でのイギリスのMI6の活躍の報道に接して、私は考え込まざるを得なくなった。
有地 浩(ありち ひろし)株式会社日本決済情報センター顧問、人間経済科学研究所 代表パートナー(財務省OB)
岡山県倉敷市出身。東京大学法学部を経て1975年大蔵省(現、財務省)入省。その後、官費留学生としてフランス国立行政学院(ENA)留学。財務省大臣官房審議官、世界銀行グループの国際金融公社東京駐在特別代表などを歴任し、2008年退官。 輸出入・港湾関連情報処理センター株式会社専務取締役、株式会社日本決済情報センター代表取締役社長を経て、2018年6月より同社顧問。著書に「フランス人の流儀」(大修館)(共著)。人間経済科学研究所サイト