令和元年5月1日の奥付でワニブックスから刊行する新著のタイトルは『令和日本史記』である。
中国では、司馬遷が三皇五帝の最後で神話と歴史の境界にある黄帝から司馬遷が生きた前漢の武帝の次代までを通史として描くことで、中国国家の確固たる連続性を漢民族に認識させた。
『令和日本史記』で私がめざしているのもそういう歴史認識である。ただし、それは神がかり過ぎるのもよくない。だからこそ、司馬遷は三皇五帝のうち三皇四帝まではあえて書かなかったのであり、それについては、唐の時代になって補筆された。
私も、物語は高天原の神々でなく神武天皇から開始し、神話の部分はコラムでの解説に留めている。タイトルを『令和日本書紀』などとせずに『史記』という言葉を使ったのもそういう所以である。
この本の帯には、
「私たち日本人の歴史はこれまでも、そしてこれからも皇室とともにある!」
「令和元年に贈る万世一系・日本の正しい歴史、ここに誕生!」
「この国家が皇室の安定的な存在とともに長い継続性を持ち、安定した歴史を持っているということは、国民としての誇りであり、何にも得難い財産なのである。本書がそれをもう一度、再評価する契機となれば幸いである」
という言葉を並べてある。
そして、最大の主眼は万世一系を歴史として位置づけることであり、もうひとつは、大化の改新、明治維新といった節目になる偉業の正しい位置づけ、そして、それが戦後の日本国家にも連続性をもって引き継がれていることの証明である。
もちろん、いまそれを論じる必要があるのは、大ベストセラーになった『日本国紀』が一方で愛国心にあふれながら、万世一系を否定し大化の改新も曖昧な位置づけで、明治維新についてはほとんど評価せず、戦後日本を日本国家の歴史と切り離されたものであるかのごとく扱っていることに疑問をもち、それとは違う歴史認識をまとめねばと感じたからでもある。
今回は、そうしたテーマのなかでも、万世一系に絞って論じておきたい。
本書のなかで私は次のように書いている。
この本は、その日本という国が二千年にわたって揺るぎない統一を維持し成功を収めたひとつの背景として、皇室という揺るぎない軸の存在があったことを描き出そうというものである。本当はこうした作業は国家的に取り組むべきものだと思うが、微力ながら試みの作業をしてみたつもりである。
また、安定的で説得力の高い皇位継承がどのように模索されてきたかも論じ、昨今の皇位継承論争を考えるうえでも参考になるように心がけた。私は応神、継体天皇の即位に際して別系統の王朝になったなどということは、まったく根拠薄弱な幼稚な議論だと思っている。その理由はおいおい書くが、それも含めて「新・万世一系論」といっていただいてもよい。
すでに何度も書いたように、『日本国紀』は、「万世一系」を称揚しながら応神天皇や継体天皇について王朝が交替した可能性が強いという趣旨のことが書かれている。以下、それとも関連させつつ、『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』(ぱるす出版)で書いたことを要約して紹介すると、『日本国紀』は、日本の歴史は神話と結びついているからこそ、格別にユニークなものになっているのであり、日本は神話の中の天孫の子孫が万世一系で二十一世紀の現代まで続いているとされている。こんな国は世界のどこにもない、というのだ。
しかし、万世一系を否定する必要など何もないのである。私自身は皇国史観から距離を置きつつ「万世一系」を肯定している。日向からやってきた武人が大和南西部に創ったクニが発展して日本国家になり、その王者は男系男子で現在の皇室まで継続しているということは荒唐無稽でないと思うからだ。
応神天皇と継体天皇の継承についても、仁徳天皇の男系男子がいなくなってしまった事態を受けて、応神天皇の子孫(仁徳天皇の兄弟の末)である継体天皇が継承した経緯は別に謎も何もない自然なものだと思う。
また、その継体天皇の継承のときにむしろ第一候補だったのが、仲哀天皇の子孫(応神天皇の兄弟の末)だった倭彦命だったことを見れば、仲哀天皇と応神天皇の父子関係を否定するのは理屈が合わないのである。
戦前の皇国史観では、やや大仰に粉飾された「神武東征」とか大和国の畝傍山の麓での「建国」が語られ、美術作品などでも描かれていたが、そんなことは、記紀にも書いておらず、中世以降に成立した伝説なのである。
神武天皇は多人数の軍隊と一緒に東征に出発したわけでもないし、大和で建てたクニは日本国家でなく、せいぜい現在の橿原市と御所市あたりだけを領域にするだけだったというのが、記紀に書かれている出来事であって、リアリティも高いと思う。
記紀の内容は、古代の王者達の長すぎる寿命を別にすれば、系図も事跡もさほど不自然なところはなく信頼性は高く、中国や韓国の史書や高句麗時代の「好太王碑」などとも符合し、考古学的知見からも、とくに矛盾はないと考えるからである。
記紀に書かれている内容を私なりに整理すれば以下のようなことだ。
①日向からやってきた神武天皇とのちに呼ばれることになる武人が奈良盆地の南西部に小さいクニを建て、その子孫は、近隣の王者たちと縁結びをして勢力を拡げた。
②10代目の崇神天皇が大和国を統一し、さらに吉備や出雲を服属させ、その曾孫のヤマトタケルらが関東や九州の一部にも勢力を拡げた。
③仲哀・応神天皇や神功皇后のときに北九州を服属させて成立した統一国家の王者は、朝鮮半島にも進出した。
④5世紀後半に武烈天皇に近い血縁の男子がなく、応神天皇の子孫で越前にいた継体天皇を招聘したが、その経緯に不自然なところはない。
これのどこがおかしいとか不自然なのだろうか。中国の史書との関連でも、南朝全盛期の歴史を描いた『宋書』は、倭王武が詳細に倭国の歴史を述べた上表文を掲げている。そこでは、畿内発祥の大和朝廷が東日本、西日本、朝鮮半島のそれぞれ数十か国を従え、隆々と反映していることが描かれている。
そして、その倭王武は雄略天皇であることが極めて有力であり、その時代に関東や九州の有力豪族の子弟が雄略天皇の宮廷で奉仕していたことまで考古学資料で立証されている。そこまでの証拠があって、なんで、統一国家が成立していたことまで疑わねばならないか私には理解できない。
もちろん、残念ながら完全な証明のためには同時代の文字資料が必要だが、文字は統一国家成立のあたりから漢民族系の帰化人によって使われ始め、聖徳太子のころになると日本人でも読み書きができる者が増え始め、天智・天武朝あたりで律令政治が可能なくらいに普及したのだから、統一国家形成期の文字資料が出てくることはほとんど絶望的だ。
そうしたなかで、もし、万世一系に若干の疑問を留保するとしても、「日本は統一国家の成立以来、独立と統一を維持し続けており、いわゆる万世一系が真実かどうか分からないが、少なくとも6世紀あたりからは同一家系の男系男子で継承されている世界最長の継続性をもった国家だ」くらいを限度にしておけばいいのにと思うわけである。
大地の地盤でもそうだが、地層は古ければ古いほど安定しているのである。また、私が皇位継承にあってできる限り男系男子の原則を大事にするべきだと考えているのも、それがいちばん正統性が強いからである。
万世一系の原則を守るより、一般国民に親しみのあるその時々の天皇に近い血筋の人物が皇位を継いでいくのがよいというのは、あまりにも、短期的な視野にこだわっていると私は思う。
そういう意味では、小室圭騒動は、天が日本人に与えた啓示だったのかもしれない。