産経新聞で4月3日から『李登輝秘録』の連載が始まった。過去にはサンケイ新聞社時代の『蒋介石秘録』を始め『毛沢東秘録』や『鄧小平秘録』など、後世に残る優れた秘録物を世に出した産経だ。今度の秘録にも大いに期待している。
李登輝秘録 記事一覧(産経新聞デジタル)
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産経新聞といえば筆者は四半世紀この方、産経以外の新聞を有料で読んでいない。正確にいえばここ10年ほどは産経にすらお金を払っていなかった。ネットで読めたからだ。が、最近になってネットの産経にも有料記事が増えた。潰れられると困るので先月から月500円の有料会員になった。
産経との縁は筆者が単身赴任を始めたことから。夕刊がないので安いしゴミ捨ても楽だ。読んだら産経抄の石井英夫氏が郷土・高校・大学の大先輩と判り愛着が湧いた。記事も硬派だし、正論欄の今は亡き鳥居民や渡部昇一の論は大いに勉強になった。加地伸行、平川祐弘、佐瀬昌盛、屋山太郎らもご高齢だがまだまだ健筆を揮って欲しい。
さて、7日の『李登輝秘録』にはリー・クアンユーとの対談が写真付で載った。記事はこうある。
シンガポール元首相、リー・クアンユー(1923年~2015年、中国語名・李光耀)が2000年に出版した『李光耀回憶録』(世界書局)で明かした内容は、やや異なる。台湾の李(登輝)が1994年5月のシンガポール訪問時にゴー(チョクトン首相)に合弁会社を提案した経緯は曽の記憶と同じ。だが、李の提案は「海運会社」で、リーとゴーがこれに航空会社を加え、さらにシンガポールが出資比率を引き上げて、中台と三者均等にする計画に作り替えた、とリーは回想する。
この案に「李総統は賛成したが(中国の同意を得るまで)困難な事態も想定されるとして、シンガポールに問題解決で協力を求めてきた」という。シンガポールは、自ら主導権を発揮して中台を結びつけようと考えていたのかもしれない。
この案を携えてゴーは訪中した。94年10月6日に北京の人民大会堂で、楊の後任として93年3月に国家主席に就任していた江沢民(1926年生まれ)と会談し、打診したところ、江は首をかしげた。「残念ですが不適当ですね」とゴーに答えたとリーは記述している。
このシンガポール訪問の後、李登輝は中米歴訪を経て米国を訪れ母校コーネル大で講演をしたのだが、これに反発した中国が台湾海峡にミサイルを撃ち込み、クリントン政権も空母を派遣して対峙した話は拙稿『どこまで本気か?台湾を巡る米中対峙』でも触れた。
ソ連崩壊で一つ目的を失った中国人民解放軍は、李登輝の登場で民主化が進む台湾の解放に新たな目的を見出して軍備の近代化を進めた。その一つが新生ロシアからのスホイ27戦闘機の購入だ。米国も台湾関係法に則って即座に台湾へF16売却して対抗した。
台湾がF16に加えてフランスからミラージュも購入すると、逆に中国は台湾に歩み寄り、93年4月にはシンガポールで江沢民と李登輝のそれぞれの代理(中国汪道涵両岸関係協会会長vs辜振甫海峡交流基金会理事長)による公式会談が持たれた。
シンガポールがなぜそういう場所かといえば、それは李登輝と李光耀(リー・クアンユー)が同じ父祖を持つ客家であることと無縁でないと筆者は考える。そこで客家の話で本稿を結びたい。ただし、千数百年も前のことなので諸説あるのは勿論だ。筆者の論もその内の一つと捉えてもらいたい。
客家は5世紀頃まで黄河中流域のいわゆる中原にいた漢族の一支流といわれる。東晋末から五胡十六国時代に掛けての北方民族の侵攻を逃れて福建省の山間部に唐末まで住み着いた。が、黄巣の乱が起こるとここを逃れて広東省北部の海沿い梅県辺りに定住した。
しかしそこも安住の地とならず17世紀半ばに清が興ると、梅県から一部は台湾に、一部は四川省に移住した。5世紀末以降こうして移住を繰り返した客家にはそれ故の特徴がいくつかある。それらは客家語の墨守、二度埋葬(一旦土葬してから骨を掘り出して洗い、骨壺に入れて常に持ち出せるようにする)、女性が纏足せず働き手になることなどだ。
この様に客家は他の漢族と異なる習俗を持つので、団結心・反骨心・行動力に富み、固まって定住する風がある。清はこういった傾向を持つ客家を疎んで、客家が多く住む広東省からの台湾への移住だけを17世紀後半まで認めなかったほどだ。
客家には李登輝やリー・クアンユーの他にも、広東省出身の孫文、四川省出身の鄧小平、現台湾総統の蔡英文(祖母は平埔族)など多士済々だ。この面子を見ても客家がどういう人々か何となく想像が付くではないか。
「李登輝秘録」の連載にも、また産経新聞の末永い存続にも期待して止まない。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。