百円札、二千円札がいまも使える不思議

八幡 和郎

今回の新札発行決定の中で残念だったのは、2000円札のデザイン変更や発行停止がされなかったことだ。

2000円札のデザイン:財務省サイト

なにしろ、「守礼之国」、つまり中国の皇帝に忠実であるという扁額の文字がくっきり印刷されているトンデモ紙幣なのである。

2000年に発行され7億枚刷られたが普及せず、2003年に1億枚刷られたが、その後はATMで使える機械も減り、ほとんど沖縄県内だけで使われ、残りは日本銀行の金庫にしまわれたままである。

大蔵省は守礼門という名の意味を十分に知らずに図柄として採用したのだろうが、それが「礼儀を大事にする国」でなく、明の皇帝から忠誠を誉められたこの言葉を扁額にしたということや、この場所で琉球王が明からの使いに三跪九叩頭した屈辱の場所であることを指摘してお札にふさわしくないと産経新聞紙上で指摘したのは私である。

しかし、宮沢大臣の「文化財だからまあいいじゃないか」とかいったわけのわからん弁解で発行は強行されたのだが、普及しなかった。

アメリカでは20ドル紙幣がよく使われているのだが、日本人にはなじみがなかったということでもあるが、私の指摘もお祝いムードに水を差して普及の足かせになったともいわれたものだ。

今回の決定は、まだ、日本銀行の倉庫にはあるし、沖縄ではそこそこ使われている一方、図柄を変えたら使われるのかと言えばそうでものいので、そのままにしたのだろう。

ちなみに、日本では古い紙幣も基本的にはすべて有効で使える。このホームページで現在では発行されていないが使える紙幣が分かる。

たとえば、聖徳太子の1万円札も板垣退助の100円札も明治18年発行の大黒様の1円札もいまも有効なのだ。

1974(昭和49)年8月1日に発行停止された100円札:日銀サイト

こういうのは偽造などの温床でもあるし、資金隠匿の温床になるので、期限を切るとか、使うためには、銀行で複雑な手続きを経て出所を明らかにしたうえでないと使えないようにするべきだと思う。

私もユーロ導入以前のフラン紙幣を少し持っているが、何ヶ月間かの猶予期間、さらに何ヶ月かの制限交換期間のあとは、紙くずになったはずだ。

以下、二千円札の問題の所在について補足をしておきたい。

誤解だらけの沖縄と領土問題  』(イースト新書)より

中国から来る正式の使節は国王の交代の時に来る冊封使です。国王が死ぬと使節が派遣され、前国王の葬儀が崇福寺で行われ、そのあと、首里城の正殿の前の庭で、「汝○○を琉球国中山王に封ず」という詔書を受け取ったのです。

織田信長が全盛のころ、琉球王尚永のもとへ、明の皇帝が使わした冊封使が来琉し、「琉球はよく進貢のつとめを果たしており『守礼之邦(帝国に忠実な心がけの良い国)』と称するにたる」という神宗(万歴帝)からの勅諭を伝えました。喜んだ尚永王は「守礼之邦」という扁額をつくらせ城門に掲げさせましたが(一五七九年)、これが「守礼門」の由来です。それにしても、公的機関の観光パンフレットに「守礼之邦というのは、礼儀が重んぜられている道徳的に立派な国という意味」などと書かれていることがありますが、意図的に歴史を歪曲することは売国的行為としかいいようがありません。

令和日本史記』(ワニブックス)より

琉球王国は、明帝国から厚遇され、非常にたくさんの朝貢船の派遣を特権的に許され、日本や東南アジア各地と中継貿易をして莫大な利益を上げました。沖縄の焼酎である泡盛も、このころ、タイのお酒の影響で成立したもので、いまも、ジャポニカでなく細長いタイ米でつくっています。

「万国津梁(世界の架け橋)」の時代といわれる琉球王国の全盛期です。しかし、倭寇の跋扈で朝貢貿易の枠外の自由貿易が盛んとなり、また、倭寇をビジネスパートナーとする南蛮船が到来してより本格的な中継貿易を始めるに至って下火になっていきました。

なお、中国人の地理観として琉球は福建省の先にありました。浙江省や江蘇省から東シナ海を横切る航海は常に危険が高いものだったからで、福建省からが安全だったからです。しかし、航海になれていない中国人高官にとっては、比較的安全な福州航路ですら決死の思いで、海が荒れると用意した棺桶に入って銀の釘を打ち付け、漂着した地で葬ってもらう準備までしていたそうです。