プレジデントオンラインに先々月末、『「幸運な出会い」に恵まれる人の思考習慣』と題された記事がありました。一企業経営者である筆者自身が「なぜ出会いに恵まれるのか?」を考えるに、「相手の地位や肩書き、業種の違いに関係なく、思ったことを率直に伝え学んできたことが、沢山の出会いの連鎖に繋がったのではないか」とのことであります。
「縁尋機妙:えんじんきみょう」とは、仏教にある言葉です。縁が縁を尋ね、その発展の仕方は非常に不思議であるということです。良縁に巡り合うと得てして良縁に結び付きますから、次から次に良縁が巡ってくる場合、例えば「運が良かった」となって行くのでしょう。
嘗てのブログ『運とは何か~多逢聖因・縁尋機妙~』(14年1月14日)でも述べた通り、運というのは味方に付けるとか無駄遣いしないといったものでなく、そうした機妙な状況を主体的に創り上げねばならないものです。その意味で言うと、運とは常に自分が主体的立場に立ち与えられたチャンスをどう生かすかということであり、良き全てに出会う結果として運も良くなり様々な事柄が進展して行くわけです。
出会いというのは明治の知の巨人・森信三先生が言われるように、「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」といった形で、あるのだろうと私は思っています。但し、その人が日頃より一生懸命考え真剣に自分の為すべきを為し生きていないとしたら、折角の縁がやってきても気付かなかったり、その縁を逃したりすることでしょう。
小才は縁に出会って縁に気づかず。中才は縁に気づいて縁を生(活)かさず。大才は袖振り合う縁をも生(活)かす――BSフジの番組「この国の行く末2~テクノロジーの進化とオープンイノベーション~」(毎週土曜18時~18時30分)の先日の収録時、私は柳生新陰流・柳生家家訓にある此の言葉で締め括りました。
世の中には縁があるにも拘らず縁を生かせない人、縁に気付かない人が沢山いる一方で、「袖振り合うも多生の縁(=擦り合うも、触れ合うも、触り合うも)」と言いますが、僅かな縁をも生かせる人もいます。柳生家では小・中・大の才と絡める中で、縁を生かす為の条件が考えられているわけです。
私として縁が結ばれるのは単に才の有無の問題でなく、その人が有する人間力が大きく影響するのではないかと思っています。縁というのは己に見合ったレベルの中で得られるものですから、良縁を呼び込みたいと思えば、自分が日々社会生活で事上磨錬し人間力のレベルを上げて行くしかありません。
そして、縁を逃がさず生かして行くには、素直さが先ず大事になります。勿論、良縁と悪縁を峻別することも大切ですが、結局、自ら私利私欲を排し素直な気持ちを持つことが良き縁に恵まれる第一歩だと思います。
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