上野千鶴子氏に、お願い

玄間 千映子

ジェンダー研究の第一人者である上野先生らしい、“祝辞”だと思ったし、論の組み立てだ。

「がんばっても報われない社会が待っている」東大の入学式で語られたこと【全文】(BuzzFeed Japan)

確かに社会にはあからさまな性差別は、横行している。

しかし働くという場においては、私はそれを差別と云うより性差という“違いを活かす環境整備の遅れ”と理解したい。

東大サイトより:編集部

「公正」について

上野先生は「頑張っても公正に報われない社会」があるという。
はたして、それは性差が発端なのだろうか?
性差が発端だとするならば、女だけ、男だけの中では不公正は存在しないのだろうか?
そんなことはない、と私は思う。

公正か否かを感じるのは個々人だ。性別で括り取ることなど、到底できるものではないと思うが、そういう絶対的存在はどうやって考えたらよいのだろうか?人間の心はデジタルでは置き換えられない。なぜなら、心を映す記号は言葉であって、数字ではないから。記号の性質が違えば、“絶対”の生まれ方も違ってきはしないだろうか。

もっとも、論文本数や売り上げという結果だけで判断すれば公正は担保できるという見方も、ある。がしかし、その結果、論文は底の浅いまるで一つの章を論文の形に纏めたような、“章立て論文”が氾濫し、架空の売り上げが作られてしまうことが珍しくなくなった。

研究者間での活動の性差別を取り上げていると思われる上野先生は、まさか論文本数という結果だけで判断すれば公正は担保できるという見方をされているなんてことないだろう。

“公正の実現”を旗印に掲げている上野先生は、生み出されてくる数字の背景をどんな風に扱われるのか、是非とも知りたいと世の中は思っているのではないだろうか。

男女雇用機会均等法のお陰で女性の社会進出の機会は、確かに随分拡がった。これは上野先生ら、ジェンダー闘争のお陰なのかもしれない。

しかし、その結果、現在の職場では女性は競争相手に同性を抱える存在になっている。その同性間における公正という矢の向かう先はどこに向かっているのだろうか?

この手の平等論のあげく結局、女性は生きにくくなったということはないのだろうか?
おしゃれをしたい、甘えたい。
そうありたいという女性の生き方を、否定することになってはいないだろうか?

世の中にはいろんな生き方の人がいる。
その彼ら、彼女らの生き方をぞんざいに扱ってしまうようなことがあったとしたなら、それは社会の支持を得られない独りよがりのジェンダー論になってしまいそうに、私は思う。

公正を求めて世の不合理を糾弾されるのなら、是非とも、世でしのぎを削っている男性諸氏のために“公正を生み出す方程式”を提示してあげて欲しい、と私は思う。間接的に、それはきっと穏やかな家庭の礎となり、家庭を支える女性にとって大きな利点になると思うから。

私は公正は与えられるものではなく、それを求める者の腑に落ちるところに公正は“生まれる”と考えている。
公正は与えられるものではなく、自らの中から生み出すものだと、私は考えている。

加えて云えば、腑に落としにくいことを受け入れ易くするにはチャンスを用意しておくことだと思っている。職場で云えば、何をしておけば良かったか、何が不足していたのかという、本人が努力できる空間を提示することが、非常に重要で公正感を高めると感じているが、それをできるのは評価基点を握る上司だけであり、たとえば指導教官などはその力が求められる最たるものだと思っている。

ハラスメントと同じ構図で、受けの側が不公正だといえば、どんなに尽くしても、不公正になってしまうのが「公正」というワードではないか。

公正の実現を掲げるのなら、各自が公正を生み出せる環境整備を整えることこそが、必要なのではないだろうか?

「かわいい」ことの期待

東大の女子学生が東大生だというと、男子がひくから「東京、の、大学…」というというのだそうだ。
なぜなら、男性を脅かす存在に観られたくないということらしい。

いいではないか、と私は思う。
自分の射程距離内にどんな男性を置くかは、それは彼女の人生だ。

ただし、世界に目を向ければハーバードもスタンフォードもオックスフォードも、アジアであれば北京大学だって、東大とは遜色ない存在として世界に知の光を放っている。

東大の女子がそういう“躱し”(かわし)をするのが本当なら、それはかわいさや媚びを売っているのではなくって、もともと自分のターゲットに入れていない、自分の相手にしていない相手に時間を取られたくないというのが、本音ではないかと私は、思う。男女を問わず人間誰しも、限られた人生時間の中で色んな算段をするものだ。

東大に入ってくる女子ぐらいなら、自分を“守って”もらえる相手はどんな存在かぐらいは当然、意識しているだろう。それが学歴なのか、人物なのかも、彼女らの心の中にはしっかりメジャーがあるはずだ。

上野先生はこのメジャーの存在を、どう眺めているのだろうか?

ひょっとしたらステレオタイプ的なジェンダー論は、女性の生来の強さや賢さ、しぶとさを削いでしまうのではないだろうかと気になった。上野先生の目には“ねじれ”と映るのかもしれないが、そう決めつけてしまうところに女性の生き方に息苦しさを生み出してしまっているのではないかと危惧する。

財布を奥方に預ける慣習のある日本は、他国に比べれば社会の中での男女の差別感はかなり低い、と私は思っている。
せっかくの差別感の低さが職場に中々、持ち込めないとするのなら、それは性差別ではなく、性差をポテンシャルとして眺めるという視点の整理が産業社会に整っていないことが問題ではないだろうか。

上野先生は、まさか米国社会を男女平等社会だとはおっしゃらないと思うが、もともと戦争があり、重厚長大産業が軸を為している社会では、肉体的強さは何よりも価値がある。その肉体的強さを持つ存在が、たまたま平均的に男という性に多かったがゆえに、今日の社会における男女感が生まれているだけだと、私は眺めている。

しかし、この終わりを迎えようとしている平成という時代は戦争という経験を日本はもたずに済んだ。そして、重厚長大産業は存在してはいるものの、その根幹にはガッシリとITが産業を支える構図になっている。

日本はすでにIT時代に活きているのだ。
IT時代に意味為す価値とは、知力と感性ではないだろうか。

感性と云えば、女性の領分だと昔から云われているし、筋力よりも、しぶとさではないかと眺めたときに、はたして女性という人的資源は産業活動にメリットの薄い存在なのだろうか?

私はそうは思わない。
もちろん、その程度には個人差がある。個人差があると云うことは、つまり男女という括りではすでに、対応できる社会構造ではなくなっていると云うことではないのだろうか?

つまり、技術は社会を根底から塗り替える力があると云われるように、ITという技術は男女という枠組みをすでに超え、個人と個人の間の公正さにステージを移している。

高齢者やハンディキャップの活躍しかり、LGBTの存在しかり、外国人労働者の存在しかり。
公正という尺度はこの日本の社会のみならず、世界が求める尺度でもある。

上野先生の論破力をもってして、是非ともこの日本から混迷する世界に公正を生み出すその方程式を届けてほしいものだと思った。

どうして男は仕事で女は家事、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?ナプキンやタンポンがなかった時代には、月経用品は何を使っていたの?日本の歴史に同性愛者はいたの?

女性の社会的地位の底上げに、これらの研究がどんな意味があるのか、稚拙な頭脳しか持たない私には到底分からないけど、上野先生の破壊力は尊敬する。

その破壊力をもって、是非とも、性差、個体差等々各個の持てるポテンシャルに焦点を当てた、「頑張ったら報われる社会」の絵を提示して頂きたいものだと思う。


玄間 千映子   経営労務コンサルタント
プロフィール