先日、新紙幣のデザインが発表され、一万円札の肖像画は福沢諭吉から渋沢栄一に変わりました。渋沢栄一は多くの会社の設立に携わったことで日本資本主義の父と呼ばれていますが、福沢も慶應義塾で教えた生徒の多くが日本を代表する会社の経営者となっており、渋沢と同じく日本の経営に大きな影響を与えています。
福沢諭吉は西欧から自由主義の思想を翻訳したことで有名ですが、福沢は思想だけでなく複式簿記を日本で最初に翻訳するなど実学の輸入にも貢献しています。そして多くの慶應義塾生が福沢の下で経済・会計を学んだのですが、その慶応義塾出身者が経営者へと転進するきっかけを作ったのが慶應義塾出身の中上川彦次郎です。19世紀末の日本経済は松方デフレで多くの企業が苦境に陥り、老舗の三井の経営も大きく傾いていました。そこで三井は山陽鉄道を経営した経験のある中上川彦次郎を経営者としてスカウトしました。
中上川はまず貸付が焦げ付いていた不良債権処理に乗り出し、貸付先の本願寺に社殿の抵当登記をせまって本願寺から信長以来の仏敵と呼ばれ、後に総理大臣になる桂太郎からも邸宅を差し押さえて資金を回収するなど時の権威も恐れず不良債権処理を断行しました。
そして中上川は不良債権処理が終わると鐘紡、芝浦製作所(後の東芝)、王子製紙などを買収して三井の工業化の基礎を作り、三井を日本を代表する財閥にしました。その後三井関連の企業には慶応出身の経営者が送り込まれ、慶應義塾出身の経営者の下で多くの会社が日本経済を牽引する大企業へと飛躍していきます。
鐘紡に送り込まれた慶応出身の武藤山治は当時アメリカで流行し始めた科学的管理法をいちはやく取り入れて生産工程を合理化し、さらに従業員には賃上げや福利厚生で報いる温情経営を行なって鐘紡を日本を代表する紡績企業にしました。
製紙業では業績が低迷していた王子製紙から創業者の渋沢栄一を追い出して慶応出身の藤原銀次郎が経営改革を行ない、王子製紙を日本一の製紙会社へと育て上げました。
流通では三井呉服店に送り込まれた慶応出身の日比翁助が客の店の出入りを自由にし、陳列販売方式の採用、日本初の商業PR誌『花ごろも』を配布するなど欧米の百貨店のビジネスモデルを取り入れて三越を日本を代表する百貨店へと飛躍させました。
鉄道では慶応出身の小林一三が箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)の役員となり、鉄道を敷設するだけでなく新興住宅地の池田を開発して月賦で買えるようにし、宝塚歌劇団の結成、映画会社東宝の立ち上げ、梅田にターミナルデパートを出店するなど鉄道の集客力を武器に多角化するビジネスモデルで日本独自の鉄道文化を生みました。
電力では慶応出身者の福沢桃介が大同電力、名古屋電灯などで経営を行い、これらの企業が後に関西電力、中部電力に再編されました。
また、三井と並ぶ財閥に発展した三菱を実務家として支えたのが慶応出身の荘田平五郎です。荘田は福沢諭吉の下で欧米の会計書の翻訳を行なっていましたが、その知識を買われて三菱に入社しました。そして荘田は三菱の造船事業で近代的な原価計算を取り入れて三菱の海運事業を大きくし、三菱財閥の基礎を作りました。また、三菱は丸の内を購入して関連企業を誘致して丸の内を日本を代表するビジネス街にしましたが、その丸の内購入を岩崎弥之助に指示したのも荘田平五郎だったのです。
そのほかにも三井銀行で経営を行なって後に日銀総裁になった池田成彬、北浜銀行を設立して関西で多くの起業支援を行い、自らも生駒トンネル建設を発案して大阪電気軌道(のちの近畿日本鉄道)社長になった岩下清周など慶應義塾が多くの人材を輩出したのです。
また、福沢諭吉自身も自らが編集を行なっていた時事新報の挿絵画家に北沢楽天や今泉一瓢らを雇い、後に今泉らが自らの絵を漫画と呼ぶようになってここから日本の近代的な漫画が始まりました。そして今回の新紙幣で1000円札の肖像画は北里柴三郎になりましたが、金欠だった北里を金銭的に支援したのも福沢諭吉だったのです。
福沢諭吉は自由主義思想家として有名ですが、慶應義塾を創設して多くの経営者を輩出した実務家の側面もありました。渋沢栄一は多くの会社の設立に関わって日本資本主義の父と言われていますが、福沢も負けず劣らず日本の経営に大きな影響を与えているのです。
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水口 進一 京都大学経済学研究科卒の個人投資家
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