忌野清志郎さんとhideさんのこと

常見 陽平

5月2日がやってきた。忌野清志郎さんとhideさんの命日だ。4月から5月にかけて、カート・コバーン、尾崎豊、私の父と、命日が続き。5月に入るとこの2人。清志郎さん以外は、私の方が長く生きてしまった。

hideさん、忌野清志郎さん(公式サイトより:編集部)

10代の頃から彼らには影響を受けており。それぞれ、衝撃的な存在であり続けていた。この上なく自由に見えたし、才能も尖っていた。

忌野清志郎さんのライブを見るようになったのは、ちょうど20年くらい前からで。問題作、パンフ風「君が代」を収録した『冬の十字架』をインディーズでリリースした頃で。この頃は、数百人規模のライブハウスにもよく出演しており。都内のライブによく通った。最後に見たのは、癌からの復活ライブだった。2008年の春だったろうか。「徹子の部屋」で放送事故そのものの、挙動不審な言動を繰り返したのは、この前年だったろうか。

彼が亡くなってから10年。ちょうどその頃は物書き活動に力を入れ始めた頃で。葬儀にも行ったが、あまりの行列で結局、並ぶことを断念。青山葬儀所の前でお祈りして帰った。

hideの存在を知ったのは、13歳か14歳だったような。中学生の頃だ。とにかく、見た目もサウンドも強烈で。X JAPANになる前のXは、良い意味で洗練されておらず。いつもバイオレンスの臭いがあり。「サイケデリック・バイオレンス&クライム・オブ・ビジュアルショック」というXのフレーズは、hideが考えたような。当時のXは、hide とTAIJIが目立っていて。ビジュアルもサウンドも強烈な上、ステージ上で火を噴くなどのパフォーマンスに衝撃を受けた。

昨年、幕張メッセで観たX JAPANは、完全に世界レベルの、次のステージに行っていて。パフォーマンスも、演出も素晴らしくモンスターバンドになった感じだったけれど。メジャーデビュー前後のXは、何が起こるかわからないようなエネルギーに満ちていた。今のX JAPANはYOSHIKIのバンドだなあと感じるけれど、Xはhideの才能が光っていたような。別にハードロックやメタルに限っておらず。ポップだったり、パンキッシュだったり。

hideのソロにドキドキしていたら、あっという間に逝ってしまった。hideが生きていたら、日本の音楽はもっと前に進み。ジャンルや世界との壁はもっと早くなくなっていただろう。もっとも、やや不謹慎かもしれないが、彼がずっと生きている世界というのもイメージすることができず。いや、ずっと生きているかのような気分にもなり。生きていても、何かこう、超越していて、この世にいないかのような存在だった。

そういえば、昨日の朝日新聞の「天声人語」が話題となっており。忌野清志郎の親が朝日の人生相談コーナーに投書していたという話だ。彼の支えだったのが、日野高校の美術の先生だったという。

(天声人語)ぼくの好きな先生:朝日新聞デジタル 

hideも、横須賀サーベルタイガーを解散するときに、もう音楽をやめて美容師になろうとしていたときに、挨拶の電話をかけた相手、YOSHIKIに説得され、Xに加入したという。

縁だ。

教育者として、論者として、人の人生のきっかけになれているかどうか自問自答した。

ふたりとも自由人風だったけれど、たまに垣間見える裏腹な生きづらさとか、孤独感とか。それもまた魅力的だったし、共感した次第だ。

今年は、格差社会、過労社会、分断社会について怒りを代弁しまくる音源をリリースする予定だが…。ミュージシャンには今のところなれていないが、彼らと同じくらい自由で、刺激的な存在でいられるかろうか。いつも自問自答しながら生きている。何をやるかよりも、どうやるかを大切に生きている。ありがとう。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年5月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。