法王発言:「寛容」と「尊敬」の間の違いとは

長谷川 良

フランシスコ法王は7日、ブルガリアと北マケドニア両国の司牧訪問を終え、ローマへの帰途、慣例の機内記者会見を開き、そこで非常に興味深い発言を引用している。北マケドニアのイヴァノフ大統領のスコピエでの歓迎演説に、「北マケドニアでは宗教間に寛容はない、あるのは尊敬だ」という一節があったのだ。フランシスコ法王はその発言に非常に感動している。バチカン・ニュースが8日、報じた。

▲機内記者会見で答えるフランシスコ法王(バチカン・ニュース5月7日、写真はANSA通信)

▲機内記者会見で答えるフランシスコ法王(バチカン・ニュース5月7日、写真はANSA通信)

北マケドニアには正教徒、カトリック教徒、イスラム教徒、新教徒など多様な宗教者が共存している。民族的にも、マケドニア人のほか、アルバニア人、セルビア人、トルコ人など異なった民族が生きている。隣国ギリシャと国名問題で紛争が続いてきたが、「北マケドニア」という国名で決着がついたばかりだ。

ところで、「寛容」と「尊敬」は意味も使い方も違う。宗教に対して「寛容」とは、宗教に関心がないか、むしろ嫌悪していたとしても、人権と「信仰の自由」という観点から「私は宗教、その信者に対して差別しないし、迫害や弾圧する意思はない」と意味合いが含まれる。一方、宗教者に対する「尊敬」とは、宗教、その教えを信仰する信者に対して尊敬心を払っているという意味だ。

それでは、あなたは他者から「寛容」な態度で接されたいか、それとも「尊敬」を持って受け入れられたいか、と問われた場合、どちらを選ぶだろうか。多分、多くの人は前者ではなく、後者を求めるだろう。

「寛容」の目線と「尊敬」のそれは少し違う。前者の場合、「私はあなたの性質が好きではないが、受け入れる」という“上からの目線”を感じる一方、後者の「尊敬」は相手を評価し、それを称賛する思いが込められている。“同一の目線”とでもいえるかもしれない。

フランシスコ法王が述べていたが、私たちが生きる社会では、相手を「尊敬」するより、「寛容」に接することの方が多い。だから、と言っては悪いが、フランシスコ法王は「寛容」ではなく、「尊敬」で接してくれた北マケドニア国民の姿に感動したのだろう。彼らはフランシスコ法王に対し「寛容」ではなく、「尊敬」を込めて受け入れたのだ。

他の例を挙げてみたい。グローバルな社会に生きる現代人は「寛容」という言葉を好んで使う。移民、難民に対し「寛容」を求める。国連の人権憲章、ジュネーブ難民条約などへの配慮から、排斥したり、迫害せずに受け入れることを求める。牧師の娘として生まれたメルケル独首相の難民歓迎政策もその基本はやはり「寛容」だろう。難民・移民に対して「尊敬」で受け入れるべきだとは言わない。

LGBT(性的少数者)問題では、「寛容」と「尊敬」が明確には認識されずに論じられているケースが多い。LGBTの人々は、「我々の権利を認めるべきだ」、「社会の法的差別は容認できない」と主張する。価値の多様化の社会では、LGBTの権利を蹂躙できないから彼らの要求を認め、国によっては、差別を撤廃するために同性婚を認知する。ただし、誤解してはならないのは、「LGBTの生き方、世界観を認知した」結果ではなく、あくまで「寛容」から出てきた対応だという点だ。

LGBTの人々、その支持者がその点を勘違いし、「我々の価値、我々の婚姻が社会に受け入れられた」と考えれば、遅かれ早かれ失望するだろう。LGBTの権利を認める大多数の現代人は、「自分はLGBTのような生き方をしたい」とか、それを模範としたい、といった考えや思いはない。ただ、「寛容」でありたいゆえに、自分の生き方とは違う同性婚も「寛容」の態度で受け入れるのであって、「尊敬」ではない。そして敢えていえば、LGBTの人々は社会から「寛容」を勝ち得たとしても、「尊敬」は受けることは難しいだろう。

宗教に対しても、現代人は「尊敬」ではなく、「寛容」の思いから接する傾向が強まってきた。昔、宗教者が人々に「尊敬」されていた時代があった。その尊敬心を裏切ってきたのは多くは宗教者自身だった。現代人が宗教に対し「寛容」でしか受け入れられない最大の主因は宗教人の生き方にあるからだ。宗教、宗教者が近い将来、社会から「尊敬」を再び勝ち得るか否かは、宗教者の歩み方次第だろう。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年5月10日の記事に一部加筆。