神話時代の天皇はなぜご長寿なのか?

高橋 克己

幼少の頃に学校や親から話を聞かされた神話時代の天皇はみな長生きだった。それもそろって百歳以上の超長寿、子供ながら筆者はそのご存在に半信半疑だった記憶がある。が、かなり長じてからある本を読んでその理由を知り、爾来、神話時代の天皇のご存在を確信して今に至っている。

その本は平泉澄の『物語日本史』(講談社学術文庫)。彼の皇国史観は平泉史学と呼ばれ批判も多いらしい。だが、筆者は我が目の鱗を落としたこの史学の愛好者だ。本稿では彼の説く長寿天皇の秘密を明かすが、勢いほぼ同書の要約になることをご容赦願う。併せて「歴代天皇年号事典」(吉川弘文館)と「歴代天皇総覧」(中公新書)も参考にした。

今上天皇は第126代目だが、初代神武から第14代仲哀までを神話時代の天皇、第15代応神から第81代安徳までを古代の天皇、第82代後鳥羽から第107代後陽成までを中世の天皇、第108代後水尾から第121代孝明までを近世の天皇、そして第122代明治天皇以降を近現代の天皇とする区分けがある。

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画、Wikipediaより:編集部)

前記は「歴代天皇年号事典」の区分けだが、「歴代天皇総覧」では、初代神武から第32代崇峻までを古事記・日本書紀(記紀)の天皇とし、第33代推古から第81代安徳までを古代の天皇として、推古天皇で一区切りつけて分類している。その訳は後に明らかになる。

初期の天皇が神話時代の天皇と呼ばれる由縁は、神武天皇の国家建設の内容や時期などその多くが詳しく判らないからだ。それは文字に書かれた記録が残っていないからに他ならない。なぜないかといえば、その頃の我が国にはまだ文字がなかった。

中国の発明になる文字が朝鮮経由で渡来したのは第15代応神天皇の御代といわれる。それまで歴史は口伝えされていた。今日からすると甚だ頼りない気もする。だが、それは文字に頼る後の時代の者の考えで、文字に頼らないことでかえって記憶力が強化されていたという。

推古天皇はこれら口伝えの整理を聡明なる聖徳太子に命じ、天皇記や国記などの文字の記録にした。が、第35代皇極天皇の御代に一部を残して焼失し、第40代天武天皇(673年~686年)が残った一部や諸家に口伝えされたものを整理し秩序立てて稗田阿礼に記憶せしめた。

稗田阿礼の暗唱を第43代元明天皇(707年~715年)が、漢字漢文の素養の深い太安万侶に文字に記録させて712年に古事記が出来た。これとは別に聖徳太子以降の歴史家が外国の歴史を参考し、諸家の記録を整理して年月を補い、第44代元正天皇(715年~724年)の御代720年に出来たのが日本書紀だ。

こうして年月の補われた日本書紀誕生の御代には神武天皇から44代の隔たりがある。仮に一代20年とすれば約900年の隔たり。よって、紀元700年頃から約900年遡った紀元前200年頃が実際の神武天皇ご即位の年、すなわちこれを我が国の皇紀元年とする暦の始まりといえる。

ならば今年は皇紀2200年辺りになるのだが、周知の通り今年は皇紀2679年。従って500年ばかり計算が合わない。かくて古い時代の天皇がみな長寿になってしまった。神武天皇は127歳、崇神天皇120歳、日本武尊の御子の仲哀天皇に至っては父の没後36年目に生まれたといった非現実的さだ。

平泉はその理由をこう読み解く。すなわち日本書記は神武天皇のご即位を辛酉の年の春正月朔日としたが、それは中国からある歴史の法則を取り入れたことによる。古来中国には、歴史には必ずそのようにならねばならぬ法則があり、その法則さえ飲み込めば予言することが出来ると信じられていた。

これを讖緯の学(しんいのがく)という。推古天皇の御代に口伝えの歴史整理がされた時、讖緯の学を身に付けていた朝鮮の帰化学者らがこの整理に関与したと平泉は推定する。その子孫らがやがて記紀の編纂に参与し、年建てを整理するに際して讖緯の学を取り入れたというのだ。

讖緯の学からどのようなことが出て来るかといえば次のようだ。

  • 辛酉の年は人生で大きな変わり目であること
  • 1260年を単位として歴史が大きく転換すること

つまり、辛酉の年は60年に一度訪れるので61年目には大きな変化が起こり、また1260年単位での歴史の移り変わりも、その大きな変化がある年は辛酉の年であらねばならない。

推古天皇像(土佐光芳画:Wikipediaより=編集部)

この原則を立てておいて推古天皇の御代を見ると、聖徳太子によって外国文化が取り入れられ、政治、外交、学問、文物の全てが一新された。人々はこれを新時代の始まりととらえた。この新時代の始まりは辛酉の年でなくてはならないから、推古9年辛酉の年を新しい時代の出発点とした。

そこを起点に過去を振り返ると、時代の始まりである神武天皇の建国の年、すなわち皇紀元年は必ず辛酉の年であり、かつ推古9年から1260年前でなければならない。そして次のような推理に基づいて日本書紀の年建てが行われた(この天皇が「推古」となった由縁はここにあるそうだ)。

一、神武天皇のご即位は皇紀元年辛酉の年

二、推古天皇8年の庚申は皇紀1260で、時代は大きな変わり目

三、翌推古9年辛酉は新しい時代の出発点

讖緯の学からこう皇紀を設定したものの、先述の通り神武天皇と推古天皇との間隔は1260年も開くほどは長くなかった。長くないものを長くしたので、推古以前の歴代天皇の寿命も、その時代に活躍した人物の寿命も引き延ばし、ともかくも話が合うように纏め上げねばならなかったという訳だ。

では推古天皇以前の我が国の歴史がデタラメで信用できないものかといえば、そうではないと平泉はいう。讖緯の学のせいで皇紀元年の年建てを誤り、年代が延び過ぎてはいる。が、事実そのものには讖緯の学はなんらの介入もしておらず、口伝えの内容には手を触れていない。

平泉はまた、神話時代の天皇のご長寿をもって皇紀を軽んじたり、修正したら良いと考える向きに対して、後で直せば様々な不都合を生じたり、正確にどう直すか判らなかったりするとし、このようなことの例が世界各国に多くあることを、同書を書いた1970年から遡った紀元を記して紹介している。

・スペイン紀元 2008年
・マケドニア紀元 2281年
・ユダヤ紀元 5730年
・フリーメーソン紀元 5970年
・コンスタンチノープル紀元 7478年
・アレクサンドリア紀元 7462年

つまりはこの通りで、我が国の神話の天皇の時代に年の延び過ぎがあったとしても、それは珍しいことではなく、後から調べてみると500年ばかりの間違えが判ったが、そんな間違えが出るほど我が国の歴史は古いということ。それはむしろ楽しいことで少しも心配する必要はない、と平泉は述べて稿を結んでいる。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。