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第三期
1271年にチンギス・ハーンの孫フビライが大元と号するモンゴル王朝を建て、1275年に南宋を亡ぼして中国を統一した。その後、元は、東は東シナ海から西は黒海・ペルシャ湾に至る、有史以来最大の帝国を作った。元は明白なモンゴル帝国なので治世は省略し、「チンギス統原理」のみを紹介する。
モンゴル帝国には遊牧君主のウルス(所領)が多数並存し、中に元朝、チャガタイ・ハーン国、イル・ハーン国、そしてキプチャク・ハーン国の大きな4つのウルスがあった。
多くのウルスからなるモンゴル帝国は「偉大なチンギス・ハーンへの尊敬」と「彼が天から受けた世界征服の神聖な使命に対する信仰」で統合されていた。「チンギス統原理」とは「チンギス・ハーンの血を父方から承けた男子だけがハーンの称号を名乗る資格がある」とされた。我が国の皇統と似ている。
元末1351年に白蓮教なる秘密結社による紅巾の反乱が起き、河北、山東、河南、安徽などの穀倉地帯が紅巾の手に落ちた。首領の漢人韓山童は捕まったが息子韓林児が小明王を称した。紅巾一派の朱元璋は南京を拠点に勢力を伸ばし、呉王となって1366年に韓林児を殺し、翌年大明皇帝と称した。
朱元璋(洪武帝)は元の都大都(北京)を落とし、北元の昭宗は旧都カラコルムに逃げた。が、岡田英弘は「フビライ家は中国の所領を失った。が、これで元朝が滅びた訳でなく、モンゴル人から見れば故郷に引き上げただけのこと」と述べている。
朱元璋は最下層貧民の乞食坊主から白蓮教内部でのし上がり、紅巾の乱に加わって皇帝まで上り詰めたが、同じ漢族王朝の漢の高祖劉邦も同様に貧民の出だったことは興味深い。とはいえ明の制度は漢人の伝統ではなく、十進法の軍隊組織など多くのモンゴル時代の伝統を引き継いでいた。
洪武帝の皇太子朱標が1392年に亡くなり、異母弟の秦王と晋王、そして洪武帝まで亡くなった1398年に皇太孫が建文帝になると、翌年、建文帝の兄弟の燕王朱棣が反乱を起こし(靖難の役)、1402年南京を落として皇帝永楽帝(~1424年)となった。
永楽帝は祖父洪武帝と同様に大ハーンの地位に憧れて北元制服を目指した。これは「フビライが東アジア全域の皇帝になって以来、モンゴル帝国の大ハーンであって初めて本物の中国皇帝であると認識が変わった」ことによる。
岡田は「永楽帝以後の明朝はモンゴル人の元朝もどきであった。華北の諸省には元朝に多数のモンゴル人や中央アジアからのイスラム教徒、キリスト教徒が住み着き、非漢人色の強い華北を地盤とした永楽帝の后妃や宦官は非漢人が多かった。インド遠征艦隊提督の鄭和もイスラム教徒の宦官」だったと述べている。
明朝時代のトピックをあと三つ。一つは万里の長城、現在残っているのは秦の始皇帝が造ったものと説明されているが、それはもっとずっと北方の内モンゴル自治区にあった。今のものは明が北の遊牧民の侵入を恐れる余りさらに内側に引っ込んで、16世紀末まで150年以上築き続けたという。
これら北の脅威を北慮というが、海岸線も倭寇に荒らされていた。これを南倭という。1592年には豊臣秀吉の日本軍が朝鮮経由で攻め入り、前後7年間に亘って明を悩ませた(文禄・慶長の役)。
明末の1628年に陝西に大飢饉が起こり、土地を棄てた飢民が続々盗賊団を組織して明朝に反乱を起こした。この中の一人李自成(漢人)が1641年に洛陽と開封を攻め落とし、西安に大順を建てた。1644年には北京も落城させ、明の崇禎帝は自裁した。盗賊団の朱元璋が建てた明は同様の出自の李自成によって276年の幕を閉じた。
この時、山海関で北を防備していた明の将軍呉三桂は孤立し、女真族のヌルハチが1625年に建てた後金の瀋陽に同盟を求めた。敵に支援を求めた訳だ。清の実権を握っていたドルゴン(ヌルハチの14子)はこれを受け容れ、呉三桂と連合して李自成に対抗した。
李自成は大敗(その後、盗賊団に逆戻りして1645年に死亡)し、明の朝廷の百官はドルゴンに皇帝になるよう求めた。が、ドルゴンは「本物の皇帝は後から来る」といい、瀋陽からヌルハチの孫の幼帝順治帝を迎えて紫禁城の玉座につけた。なお、呉三桂は清に投降し将軍として明の残党の平定に当たった。
ヌルハチから後金を継いだホンタイジは北元を亡ぼし、北元のスタイ太后から玉璽を献上された。彼はこれをチンギス・ハーンの受けた天命が自分に移ったと解釈した。そして女真という種族名に替えて満洲(マンジュ)に統一し、満洲人、モンゴル人、高麗系漢人による会議を開いて皇帝に選挙され大清と号した。1643年に死んだホンタイジを継いだのが順治帝だ。
清の興味深いトピックとして岡田は辮髪とチャイナドレスを挙げる。辮髪は清に降った証として漢人男子に強要され、拒否した者は斬首された。またチャイナドレスは中国服ではなく満洲服だ。漢人はこれを着ることを禁じられたので、逆にこれに憧れ、現在でも死に装束に満洲服を着せるという。
「中国人の歴史観では、北方の蛮族が中国に入ると偉大な中国文明に感化されて中国化し、やがて吸収され消滅するというが、これは逆だ。中国が北の遊牧民・狩猟民に征服されるたびに漢人が北アジアの文化に同化して」いて、その好例が「辮髪とチャイナドレス」だと岡田はいうのだ。
中国は268年間清朝に支配されたが、清朝皇帝は中国だけを支配したのではなく、清帝国を構成する五大種族に対し別々の資格で君臨した。すなわち満洲人には八旗の議長、モンゴル人にはチンギス・ハーン以来の大ハーン、漢人には明朝後継の皇帝、チベット人にはチベット仏教の最高の保護者、ウイグル人には最後の遊牧帝国ジュンガルの後継者という具合に。
漢人は清朝皇帝の使用人たる官僚を通じて統治されたが、他の4つの種族には官僚を当さない自治が認められた。漢人は中国以外の辺境への立ち入りを禁じられた。科挙を通った漢人官僚は行政に参加できたが、辺境統治にも帝国経営にも参与できなかった。岡田は「漢人は清帝国の二級市民であり、中国は清朝の植民地の一つだった」と断じている。
中国以降
以上、歴史以前の中国、秦の始皇帝以来2200年余りの中国王朝の興亡史、そして中国人、漢族、中華思想といったものの来歴を駆け足だがほぼ語り尽くしたし、そろそろ紙幅も尽きる。最後は中華人民共和国以降の中国に関する岡田の記述を引いて本稿を結ぶ。
中華人民共和国は多民族国家として出発した。成立前の1947年には既に内モンゴル自治区人民政府が発足しているが、これを始め広西チワン族自治区、寧夏回族自治区、新疆ウイグル自治区、チベット自治区の5つの一級行政区が設置されたし、さらに少数民族のための自治州、自治権などがつくられた。戸籍にも各個人の属する民族が登録されることになったが、法律上認定されている民族以外は悉く漢族と区分されるのが実態で、例えば中国籍をとった日本人は漢族として分類される。そのため漢族の定義は依然として曖昧で、要するにどの民族にも属さない、という以上の意味はない。
また結局、習近平が復興したいらしい偉大な「中華民族」って?に戻ってしまう。